四ノ十一 策謀の糸

 文机に向かって、ひとり書類に目を通していた莞公の頬を、冷たい風がすっと撫で過ぎた。それでふと我にかえって、膨大な書類の山から目をあげると、背後に人の気配がする。

 彼はゆっくりとふりかえった。

「さあ、いまこそお立ちになる時でございます」

 妖艶な女が灯火のほのかな光に照らされてそこに座っている。

 莞公の愛妾である梶の葉――アサシノであった。

 アサシノは昼間に莞の中屋敷で、アスハ姫一党のひとりである忍のヒヨリに発見された直後に逃走し、那城西の丸の上屋敷に忍び入って、日が暮れてから下城してきた莞公カイエン・イルマが居間でひとりでいるのをみはからって姿をあらわしたのだ。

 本来、ゆるしもないのに勝手に上屋敷にあがってよい立場の女ではない。

 ゆえに莞公は突然のアサシノの出現に、驚いた。驚きつつも、いくら愛妾とはいえ、顔を険しくして彼女を迎えたのであった。

「いきなり現れて、なにをいうのじゃ」

 丸い顔の大きな薄い口の上にある細いナマズのような口髯をゆらし、二重の顎をひいて言った。気持ちが乱れたときのこの男の癖で、メタボリックな腹を手のひらでさすっている。

「例の準備はすでに整っておいでなのでございましょう?」

「重臣らには、内密に命をくだしてある。ひと声かければ、我が軍は一斉に行動を起こす手筈じゃ」

「ならば、いますぐ号令をお発しくださいませ」

「まてまて、なにを急いでおる」

「シオン様に、私の正体が露見いたしました」

「聞いておる。中屋敷はずいぶんな騒ぎらしいぞ」

「御曹司は、私が遁走し、もう姿は現さないと思っておいででしょう。それにまだ陰謀のことまでは気がついておいででないはずです。ですが、御曹司のおそばにはアスハ姫がいらっしゃいます」

「うむ、あの娘は勘が働くでのう」

「お殿様が、私の正体を知ったうえで、密謀におよんでいると看破されるのも時間の問題だと思うべきです」

「ううむ」

「ゆえに今すぐに、号令をお発しになるべきなのです」

 莞公は、まだ煮え切らないようすであった。

 二重に肉が寄った顎をさすって、天井を見つめて考え深げにしている。だが、彼がなにも考えていないことをアサシノは知っている。ただ、迷っているだけなのだ。優柔不断にすぎないのだ。

「何を迷っておいでです。長年切望してきた国王の座が、すぐ目の前にあるのですぞ。国王の座は、本来あなた様がお座りになるべき筋目のはず。それを、現王がずるずると居座り、うまく言い逃れをしつづけ、いつまでたっても王位をお譲りにならないのではありませんか」

 この話はちょっとややこしい。

 今の那国王リュウドウは、前王の妾腹の子であった。だが、正妻に子が生まれず、前王も歳をとってきたものだから、リュウドウを世継ぎにすることにした。だが、その数年後に正妻に子が生まれた。だからといって、前言をたちまちひるがえすのは国が混乱すると考え、廃嫡などはしなかったが、やがて、その前王が死んだ。

 王となったリュウドウのほうでも、筋目というものを考えなかったわけではない。

 最初に生まれた男子は、これも妾腹であったこともあり、帝都に留学させるかたちで国から事実上放逐し、正妻の子であるアスハと、莞公カイエンの子であるシオンを結婚させることで、筋目をもとにもどすことにしたのだ。

 だが、それでは腹の虫がおさまらないのが、莞公カイエンである。

 ――自分こそが正統だ。その正統がなぜ王になれないのだ。

 子供どうしの婚姻というアイデアに賛同をしめしつつも、彼の胸の奥底にくすぶっていたその不満を、アサシノは寝物語に思い出させ、ひたすら決起へと扇動してきたのであった。うずみ火を燃えあがらせるべく、静かに息を吹きかけるように、彼の耳朶に口を寄せて優しくささやくき、じわりじわりと彼の憤懣をあおっていったのだった。

「さあ、お立ちなさりませ!」

 アサシノが莞公に詰め寄ったときであった。

 彼女の後ろの障子が、けたたましく開け放たれた。

「やはり、そうであったか」

 シオンであった。

 敷居際に立って、刺し貫くような目つきで、アサシノをにらみ、怒りで障子の桟をつかむ手が、小刻みに震えている。

 アサシノは、おびえもせず、彼の刃のような視線をじっと見つめ返した。

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