四ノ七 雨音のしらべ
「笑いごとではございませぬ、シヴァさま」
アサシノは、前と同じ百姓家の居間に座って噛み殺しきれない笑いをもらすシヴァ・メデイアに、ふてくされたように言った。
シヴァは紺色の着流し姿でくつろいでいて、アサシノは中屋敷を抜けてきた女中姿であった。もとより、シヴァの前ではいつもの胸元を強調するような着こなしはせず、従順そうな女をよそおっていたのだが。
「いやすまぬ、すまぬ、しかしとんだ災難だったな」
「メノウめは、言うにことかいて、私が手を抜いただのと」
「灯台にしかけたネズミが、アスハ姫一行のもとへ遊びに現れるなど、さすがの
そう言ってシヴァは亜麻色の長髪を揺らしながら、またくすくすと笑うのであった。そうして笑っていると、漸で叡軍師などとうやまわれている切れ者の相貌はどこかに引っ込み、そのあたりのどこにでもいそうな(異国人ではあるが)二十代後半の若者が恋人と語らっているようだ。
「助けずにほうっておけば、今頃めざわりなアスハ姫も、サクミという異世人も
「まあ、メノウも爆発に巻き込まれていたかもしれんのだ。あいつはあいつなりに、必死だったのさ」
あの、
その時の、メノウの顔を思い出したアサシノが激しく美貌をゆがめた。
「いちど、あの小憎たらしい小僧めをきつく叱っておいてくださいまし」
「わかったわかった」
なだめるように言って、シヴァはふといつもの冷淡にさえみえる整った相貌にもどり、策謀家然とした沈静な雰囲気になっていた。
「だが、姫たちがネズミ探しを始めたとなると、ことを急がねばならんな」
「莞公はもうひとおしすれば動きもしましょうが、軍のほうがどこまで掌握しきれているかが不透明なところでございまして」
「さすがの大将軍も、全軍を思いのままにあやつるわけにはいかぬだろうしな」
「公に従う直属の軍だけでは……」
「作戦成功の確実性は薄れるな」
「いかさま」
シヴァは眉根をよせて黙考しながら、外に顔をむけた。
いっときやんでいた雨が、いつの間にか、またしとしとと降っていた。
糸にように落ちてくる小さな雨粒が、わずかな風に流されて、濡れ縁のふちをうすく濡らしている。
庭の片隅には紫陽花が桑の木の根本に寄り添うように葉を繁らせ、薄紫のたわわな花序をいくつも咲かせていて、その雨に濡れた葉には一匹のカタツムリが這っていた。
彼の生まれ育った西洋――晶月より海をへだてた西の大陸のさらに西の端の国では、梅雨などという気候はなかった。
いつまでたってもこの時期の、肌にまとわりつく湿気には慣れない。
「兵に関しては、一案がある。お前は心配せず、お前の役目に専心してくれ」
「はい、かしこまりました」
「ああそれと」
と言ってシヴァは背後の床の間においてあった文箱を取り、アサシノへと向けてふたをひらいた。
「これをわたしておこう」
箱の中には手のひらほどの大きさの、水色の水晶玉がふたつ入っている。
「おお、これがあの」
「うむ、お前なら使いこなせよう」
「ご期待を裏切りはいたしませぬ、けっして」
アサシノが箱へ手を伸ばした。その手をシヴァがつかみ、そのまま引き締まった胸へと彼女をひきよせた。
「いけませぬ、まだ日が高うございます」
「よいさ、誰ものぞきはせぬ。のぞいた者がいたらみせつけてやればよい」
「私はけがれてしまいました。国のため、あなた様の大望のためと割り切りつつも、抱かれたくもない男に抱かれ、もてあそばれてきたのです」
「お前はけがれてなどおらん」
「けがれております」
「お前を苦界へ落とすような非情な命令をくだしたのは私だ。お前に夜ごと涙を流させたのは私だ。私をうらめ」
「うらみなど。私の心から湧きあがるのは、恋慕の情だけでございます。あなた様にこうしてふたたび抱かれることをよすがに、過ぎる日を指折り数えすごしてまいりました」
「すまぬ」
シヴァはアサシノの唇に唇を重ねた。
アサシノは全身の力が抜けたようになって、シヴァに体をもたれかけ、重ねた愛人の唇を激しく吸った。
覗き見るのはカタツムリばかりである。
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