四ノ四 すれちがい
シオン・イルマは中屋敷に来ていた。
普段は学問所の寮で寝泊まりしているのだが、その自由気ままな暮らしがゆるされるのとひきかえに、十日に一度は父に伺候しなくてはいけないという条件がつけられていた。
今日は、父がこの中屋敷にお下りだというので、城中西の丸の上屋敷まで行くよりはずっと学問所にも近いこともあって、顔を見せにきたのだった。
長い縁側をひたすら父の居間へと向かって歩いていると、ふとひとりの女中らしき女が庭を横切って裏門へと向かっていくのが目にはいった。
シオンは、何の気なしに足をとめ、その女を目で追った。
もう日も傾き始めているのに、いったいどこへゆくのだろう。
二十なかほどくらいの年増女であったが、妙に艶っぽい身ごなしで、胸も尻も豊満な、男の視線を奪うようなプロポーションをしていた。
「いけませんぞ、若」と声をかけたのは後ろについていた侍臣で、「あれは殿ご寵愛の
あれがか、とシオンは思った。
見るのは初めてであったが、父が年甲斐もなく新しい
「まったく、なげかわしいものですな」と侍臣がため息まじりに言ったのは、莞公に対してであったか梶の葉に対してであったか。
シオンは、
「ふうん」
とさして興味もなさそうに返して、居間へと歩き出した。
もし彼が、アサシノ、という女スパイをどこかで目にしていたら、この時の、いや、この那国の運命は大きく変わっていたかもしれない。
アサシノは莞公中屋敷の裏門をでると、おおきなため息をひとつついた。
――まったく、武家屋敷なぞ肩がこるだけだわ。
普段の何者にも束縛されない生活からすれば、大きな屋敷も広い部屋もきれいに整えられた庭も、無駄で空虚で退屈な空間でしかなかった。
彼女をただ束縛するものは、漸という国への忠義と、ひいてはシヴァ・メデイアという男に対する情愛だけであった。
莞公カイエン・イルマなどという、腹の出た中年男にとりいり、妾におさまり、受けたくもない寵愛を受けているのも、すべては漸とシヴァのためであった。
シヴァは、作戦決行までもうすぐだと言った。
先夜、ナガトの家で、
――準備は万端……。
などとシヴァに向かって誇ったが、実はまだ完全に整っていたわけではなかった。
作戦をとどこおりなく遂行し、勝利を確実なものとするためには、まだいくらかの仕掛けが必要であった。
だが、ナガトはそんな仕掛けは性に合わぬと手伝わないし、メノウは学問所で姫を監視しているせいで自由がきかなくなっていた。
常識で考えれば、莞公という那国ナンバーツーの地位にいる男の妾に自由な時間も行動範囲もあたえられはしないのだが、莞公をいいくるめて、家臣たちに不審がられつつも時々外出して、ちまちまとその仕掛けをしかけていたのであった。
――さて、今日はどこへ行こうか。
仕掛けとは、爆弾である。
作戦開始と同時に爆弾を国都の各所で爆発させるのである。
だが、悪に染まりきっているようなこの女にも、一握の情けはあった。
――
と思っていた。
爆弾の爆発を効果的に発揮させるためには、官公庁や有力な武家の屋敷、大商人の邸宅や人目をひく名所がよいだろう。
そして一般人には極力被害が及ばない場所がいい。
アサシノは低層階級の生まれであった。
地べたをはいずり、泥水をすすって生きているような人々に囲まれて育った。
そんな環境から抜け出したくて、必死に教養を身につけた。
長じてからは詐欺商売をして、裕福な人間から金を巻きあげて生きてきたが、悪事が露見し投獄され極刑はまぬがれない運命におちいった。しかし彼女の持つ教養が目にとまり、シヴァに救いあげられた。
――あの方のためなら、どのような屈辱にも耐えてみせる。
その忍耐の時も、もうすぐ終わるのだ。
手を抜いてはならない。
アサシノは二キロほども歩き、大きな寺の門前で足をとめた。
――南空寺か。
ふいに、以前手柄をあげようと必死になっていたナガトの形相を思い出した。
辺りをみまわし、ひとけのないことを確認すると、
「ここにも仕掛けておくか」
そうつぶやいて、彼女は手のひらから、小さな塊を門内に投げ入れた。
塊は地面に落ちるとネズミの形に変じて、境内の奥へと走り去っていった。
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