三ノ四 姫の憂い

 ここ数日、アスハは憂悶の海に浮かんでいるような気分だった。

 サクミに話しかけられても生返事をするだけだし、ヒヨリが嫌味を言っても、シオンが気障なセリフを語っても、うわの空といった態度なのだった。

 しかも今日にいたっては付けて加えて、

「はあ」

 などと、なまめかしく、憂いに満ちた吐息をつくこともしばしばあったのである。

 これにはサクミ、たまりかねた。

「ちょっと、姫様」

 サクミの呼びかけにも聞こえているのかいないのか、しばらく答えず、数秒もたってから、

「なによ」

 放課後の教室の窓縁に頬杖をついて、うつろな目でさわやかな空を見上げて、面倒くさそうに答える。

「なによじゃありません、気持ち悪いです」

「なにが」

「ため息」

「うるさいわね。私はあなたのような気楽な身分じゃないのよ。いろいろと考えなくちゃならないことがあるの。庶民とは違うの」

「ああそうですか、そりゃあ失礼しました」

 つっけんどんに言って、アスハの反応を見るサクミ。

 だが、アスハはやはり怒るでもなく悲しむでもなく……。

 やがて、

「あなた」とサクミのほうは見ないで、独り言のように質問する。「あなた、どう思って」

「ですから、ため息は周りの人を不快に……」

「なによため息って、誰のため息よ。そんなこと聞いてないでしょ。まったく、とんちんかんね。私が言っているのは、この間の難民の炊き出しの話よ」

 サクミは唖然として口をあんぐりと開く。

「あなた、ああいう貧苦の中にいる人たちを見て、接して、かわいそうだとか哀れだとか思わないの」

「そりゃあ思いますけど」

「じゃあ、なにかしなさいよ」

「そう言われても」

「そうでしょ、そうなるでしょ」

 姫はやっとサクミに向き直った。だがサクミをみているでもなく、どこか遠くをみつめるように話すのだ。

「なにかできないか。でもなにもできない。そのもどかしさだけがつのるのよ」

「はあ」

「世の中を変えるには、人ひとりの力ではどうにもならないわ。私がいくら才能があふれていて、美貌の持ち主で、領民から慕われていると言っても……」

 サクミは当然、なにをぬけぬけと、と心のなかで突っ込むのだが、話がいささかまじめな様相を呈しているので、黙って聞いている。

「私ひとりでは、彼らの窮状を救うことはできないの。せいぜい炊き出しをして、飢えをしのがせることぐらいしかできないの。彼らに職をあたえて生活の立て直しをさせようとしても、どうしても領民と軋轢が生まれてしまう。じゃあ、勝手に自分たちの町を作って、そのなかで好きに暮らしなさい、というわけにもいかない。売り物はどこから仕入れるの。百姓をしたい人は、どこの土地を耕せばいいの。私では解決できないのよ。権力をもっているはずの、王の娘が何もできないのよ。これなら、野武士だの野党だのを退治するのに心胆をくだいているほうが、よっぽど気が楽だわ」

 サクミは、おののいた。じっさい、二、三歩後じさりした。

「ひ、姫様が、まともなことを言っている……」

 アスハがサクミを、きっとにらんだ。だが、その鋭いまなざしはサクミにではなく、自分自身に向けられているようだった。

「良いことをするにも権威と権力が必要なの。私はそれを持っている。なのだから利用するのにためらうべきではないのだわ。にもかかわらず、利用したくてもできない現実が立ちはだかるの。支配階級の既得権だとか、領民感情だとかなんとかがね」

 アスハはサクミの両肩を両手でつかむ。そしてゆする。

「どうすればいいの、教えてちょうだい。あなた救世者なのでしょう、ねえ、なんとかいいなさいよ」

「え、いえ、私はなんと、言ったら、いいか」サクミはゆすぶられながら、とぎれとぎれに答える。「それでも地道に、ひとつひとつを、積み重ねていけば、いつかきっと」

「まったくっ!」

 アスハはサクミを突き放すように解放した。

「なんでそんな、ありきたりなことしか言えないのよ」

「はあ、それはどうも」

「やはり、私には優秀な頭脳が必要だわ。私専属の顧問がいるわ」

「いるじゃないですか」サクミはなにを今さら、とゆうふうに、あっさりと答える。

「どこに」

「シオンさん」

「なっ!?」

 姫のひどく頓狂な声が教室にこだました。生徒たちの視線がいっせいに集まった。その矢の嵐のような視線に射抜かれたわけでもなかろうが、

「なにを、バカな、そんな、なにを……」

 なぜかアスハは顔を真っ赤にして、教室を飛び出してしまった。

 サクミはきょとんとしてそれを見送るしかなかった。

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