一ノ十 遠原村にて
サクミが真惺寺に寄宿するようになって、ひと月がすぎた。
ずっと気候がよくてすごしやすかったせいで、気にもとめていなかったのだが、サクミがこちらの世界に来たときの季節は初秋で、寺での生活がはじまってからは、急激に季節がうつりかわり、昨今ではもう、朝晩は肌寒さすら感じるようになってきた。
このかん、むこうの世界のことが、ひんぱんに思い出されてならなかった。お母さんはどうしているだろう。喧嘩したあとに突然わたしが消えたので、自分のせいだと落ち込んでいるんじゃないだろうか。お父さん、いつも汚いの臭いのと、邪険にしてごめんなさい。再会できたら思いっきり抱きつきたい。
もとの世界にもどることは、不可能だと、ジョウンすらも言う。
これまでこちらに来た異世人が、さんざん帰還方法を模索しても、なんの手段も得られなかった。そんな不可能なことに、知恵や労力をつかうよりも、こっちの世界に順応することを考えたほうが建設的だ、とジョウンは噛んでふくめるように、サクミに言って聞かせた。
だが、サクミはあきらめる気にはなれない。
――異世界での生活など、ごめんだ。
むこうの世界で嫌気がさして、異世界にでもうつり住みたい、なんて考えている人はおおぜいいるはずだ。そういう人がこちらに来ればいいのだ。
――私はごめんだ。
つらいことも、いやなことも、たくさん経験してきたが、きっと未来には希望がある、よりよい未来を歩きたい、作っていきたい、そう思って生きてきた。異世界に逃避しようなどと、毛のさきほども考えたことはなかった。
――なのに、なぜ、私がこんなめにあわなくてはならないんだ、かならずみつけてみせる、還る方法を、かならず。
そのためにも、今は、一時的にこちらの世界にあわせて生きることことも必要だ、とサクミは思いいたった。
そこで、ジョウンから、この世界のことを学んだ。
文字も少しずつ覚えてきた。
こちらの文字は、幸いなことに、基本は表音文字で、文字自体も平仮名と片仮名に似ており覚えやすいものがあった。
ただ、ほとんどの文章が草書体で書かれていることがおおく、これがなかなか読むのに苦労したし、いまも完全に読むことはできていない。
それに、日本語ほどの分量ではないが、漢字のような文字もある程度使用されており、こればかりは、画数の少ない文字から、根気よく覚えていくしかなかった。
言葉の音の種類はこちらのほうが多少多く、たとえば、会話で、ヤ行とワ行を五段ちゃんと発音しているのが、時々聞き分けづらいことがある。
それでも普通に会話できてしまうのは、(こちらの言葉が理解できてしまうのは)まったく理由がわからない。ジョウンいわく、
「なんかの
なのでそうで、この世界の仕組みが、便利なんだか、いいかげんなんだか、サクミがあきれるところであった。
そして、事件が起きた。
いや、村にすでに存在していたトラブルに、サクミがまきこまれる事態におちいった、と言ったほうが的確だろう。
ある日の昼すぎ、日課の座禅をおこなっていると、境内にいたヒヨリが(彼女は下働きのようなかたちで寺に居ついている)あわてたように大声で叫んでいる。
「なんだ騒々しい」
ジョウンが座禅の効果もあるやなしやといったていで、苛立ちながら立ちあがった。
「和尚様、村のひとたちがおおぜいで押しかけてきます」
ヒヨリの声を聞いてジョウンは、
「おお、あいつら、やっと決心したか」
と委細承知とばかりに、彼らを迎えいれた。
「サクミ、皆さんのお茶をしたくしなさい」と言ってから小声で、「でがらしで充分だからな」
この和尚、豪快な見た目のわりに、けっこう吝嗇である。
サクミは、ヒヨリとともに、でがらし茶のしたくをし、皆が集まっている本堂に運ぶ。
村の衆は八人。堂の中ほどに車座になって座っている。
そのなかにジョウンもまじっていて、
「お前もそこにすわって、話をきいていなさい」
とサクミに言うのだった。
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