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どうしてだか、私の中の彼のイメージは木陰と結びついている。

彼の名前を聞いて私が最初に想起するのは、そのさっぱりと整えられた赤黒い髪でもなければ、大振りの弦楽器のような深みのある低い声でもなく、そよそよと揺れる木の陰に佇む少し背の高いシルエットだ。

もっとも、彼が木陰でくつろぐところを実際に見たわけではない。

それどころか彼は日向を好むようで、日の当たる場所で本を読んでは、紙が焼けるからおやめなさいといつも先生に叱られていた。

それなのに、私の中で彼と木陰は切っても切れなくなっているのだ。

彼の名はリベル。

ファミリーネームは覚えていない。

私が来る前から先生の下で教わっている、言うなれば私の兄弟子だ。

私なんかよりずっと賢くて、ずっとたくさんの本を読み、ずっと多くの知恵と知識を備えている。

でも根暗な本の虫というわけではなくて、昔はたくさん遊んでくれたし、今でも漂う雰囲気にどこか茶化したところがある。

町では女にモテるらしいが私にはよくわからない。



その日も彼は先生の家からちょっと登った原っぱで片膝を立てて座っていた。

私に気がつくと彼はぱたんと本を閉じた。

「ソフィア……いくら何でも櫛ぐらい通したらどうなんだい?またぼさぼさにして……」

「いいじゃん別に。あんたと先生にしか会うことないんだし、誰かに見せるってわけでもないんだから」

「日々の習慣ってのはそう簡単に直せるもんじゃないぜ。身だしなみもその一つ……ほら、それ貸せよ。とかしてやるから」

櫛を渡すと私の後ろに回り込み、慣れた手つきでわしゃわしゃ掻いた。

「相変わらず、髪は持ち主に似るみたいだな」

彼はおそらく私自身よりも私の髪をよく知っている。

「……変わり者なのはお互い様でしょ」

「君や先生には及ばないさ」


私の髪が落ち着くころ、ようやく先生が合流した。

「どうも、変わり者がお待たせしたようで」

「これは失敬、聞こえておりましたか」

「ええリベル君、本を駄目にする習慣もどうにか直したいものですね」

矛先が自分に向かない限り、先生の嫌味は聞いていてちょっと面白い。

「せんせー、そろそろ始めようよ。お腹すいちゃった」

「そうですね。誰かさんのせいでお洗濯が遅くなってしまいましたから、さくさく行くとしましょう。今日のテーマは『燃焼』です」

そう言って先生はふらっと歩き出し、私とリベルが後に続く。

「燃焼現象の作為的な利用は、現在の人間の生物的地位及び生活のありようを決定づけた最大のファクターの一つと言えます。古くは世界を構成する5つの要素の一つとして炎を挙げる哲学や、火を崇拝の対象とする宗教も存在したようです」

森にも構わず分け入るけれど、先生は飄々と歩みを進める。

初めはこれに付いていくだけでもえらく苦労したものだ。

「ではまず始めに、自然科学的に見た燃焼の仕組みを簡単に整理しておきましょう。みなさん、予習はお済みですか?」

「燃焼は酸化反応の一種であり、光や熱を伴う激しい反応を便宜上そう呼称する。一般に燃焼の発生及び継続には、可燃物、酸素、そして熱またはその他の点火要因……いわゆる燃焼の三要素が必要不可欠であり、いずれか一つを失った時点で反応は停止する。……こんなもんでいかがでしょう?」

毎度のことながら、よくもまあ原稿もなしにすらすら暗唱できるもんだ。

本人いわく、「言語的情報の記憶が他人よりほんの少し得意なだけで、それ自体に大した意味はない」らしいけど。

「素晴らしい。多少の補足は要るかもしれませんが、基礎的な事項はそれで十分です。ソフィアさん、ここまでは大丈夫ですか?」

「え?……あー、まあ、なんとなくは」

嘘だ。

どう繕っても大丈夫じゃない。

でもここでつまずくと日が暮れるから、素直に知らないと答える選択肢は私にもはや残されていない。

なあに、後でリベルに聞けばいいさ。

大変なのはむしろここからで……

「よろしい。では本題に入りましょう。燃焼の外面的な解析については概ね書物にある通りですが、今日考察するのはその内面的な性質や世界全体の連関において果たしている役割……有り体に言えば、『どうして炎は燃えるのか』という問題です。頑張りましょうね」

……というわけだ。

これこそが私やリベルの履修する、源流魔法学魔法Ⅰ科甲級魔導師養成課程の大半を占める「根源探究」の授業である。


一般に魔法学と呼ばれるものは、正式には支流魔法学という別の体系で、そこで学ぶことになる六芒陣の原理や呪文の数々はこちら側には登場しない。

呪文やら文様やらを駆使することでどうにか現象を捻じ曲げんとする支流の簡易魔術と比べて、世界の意志と同調し、その管理権の一部を預かることで初めて成立する本来の魔術は、精度も出力もレベルが違う。

代わりに求められるのがこの馬鹿馬鹿しい禅問答だ。

なんでも本流の魔術を扱うためには、まず世界の本質をより深く理解し、世界そのものに近づく必要があるらしい。

だからこうして人里を離れ、あらゆる現象を深掘りしたり、時には滝に打たれてみたり、そこそこ強い獣を狩ったり……。

……正直私にはついていけない。

普通の勉強もままならない私にその先なんて考えられるわけないし、根性もなければ体力もないから、はっきり言って適性がない。

でもやめるわけにもいかないわけで。

私みたいな孤児みなしごは、裕福な親戚でもいない限り、どっかの家の丁稚でっちに混ざるか奴隷の身分に落ちるものとおよそ相場が決まっている。

身寄りのないガキどもにまともな仕事が用意されているはずもなく、特に女はたいていの場合後者を選ばざるを得ない。

教師によって魔術の素質を見出され、なおかつ訓練を突破できた者だけが、晴れてクソみたいな人生を変えてやることができるのだ。

だから私は、たとえどんなに辛くともここから逃げるわけにはいかない。

太ったおじさまの夜のお世話に命を燃やす気はないからね。


……てなわけで。

まずは考えてやろうじゃないの。

炎はどうして燃えるのかしら?

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