第3話

「もう、タマちゃん……どうしたんだろ」


 日曜の朝、神崎はふたたび藤原のアパートに向かっていた。

 昨夜から藤原と連絡がとれないのだ。マメな彼女には珍しいことだった。思わず足早になる神崎の胸の奥には、どす黒い不安がうずまいていた。

 前回の訪問からまた一週間が経った。藤原はまだあのトカゲを育てているのだろうか。だとすれば今、どの程度の大きさに……。

 アパートに到着した神崎はインターホンを押した。何度押しても返事がない。

「タマちゃん!」

 ドアをドンドンと叩く。やはり返事はなかった。

 留守なのだろうか……しかし、神崎の胸に膨れ上がる嫌な予感は消えなかった。彼女のハンターとしての本能が、「何かが起こっている」と告げていた。

 神崎はアパートのドアにぴたりと耳を当てた。静けさの中、微かに人間の――藤原の声が聞こえた。

「タマちゃん!?」

 神崎は丹田に力を込めると、気合いと共に掌底を放った。耳をつんざくような衝撃音と共に、アパートの金属製のドアに直径20センチほどの穴が開く。そこから手を突っ込んで鍵とチェーンを外すと、彼女は部屋の中に躍り込んだ。

 閉め切ったカーテンの隙間から差し込むわずかな光に照らされて、奇妙な長細いシルエットが見えた。神崎はぎょっとして足を止めた。

 くだんのトカゲは今や5メートルほどの大きさに成長し、もはや恐竜のような様相である。そして「むーん」という声を上げながら、その大きな口に頭から肩までを飲み込まれているのは、なんと部屋着姿の藤原ではないか!

「ぎゃーーー!! タマちゃん!!」

 神崎は悲鳴を上げながら右足を振り上げた。一閃! 大岩をも砕く踵落としがトカゲの背中に炸裂する。トカゲは苦しそうに口を開き、中から涎まみれになった藤原の頭が吐き出された。

「タマちゃん!」

「う、うーん。ひかげちゃん?」

 よかった、無事っぽい。神崎はほっと胸を撫で下ろした。

 トカゲは素早い動きで窓際へと後退し、神崎を見ると忌々しそうに「ハアー」という声を上げた。

「あの踵落としに耐えるなんて……!」

 神崎はすぐさま第二撃のため、腰を落として両拳を顔の横に構えた。トカゲが飛びかかってきたら、すぐさまカウンターで返そうという腹積もりである。

 そのとき、彼女の腰に強い衝撃が加わった。体当たりしてきたのはトカゲではない、無二の親友であるはずの藤原であった。

「たっ、タマちゃん!? なんで!」

「やめてひかげちゃん! トカゲちゃんは私の家族だよ!?」

「いや、タマちゃん食われかけてたけど!?」

「それはあれ……あの、たまたまだよ! たまたま!」

「いやいやいや!」

「とにかくやめて!」

 叫びながら、藤原は神崎とトカゲの間に割って入った。

「この子がうちに来てから、ほんとに楽しかった……どんなに嫌なことがあっても、家に帰ったらトカゲちゃんがいて……一緒にご飯食べて、一緒に寝て……幸せだったんだよ……」

「タマちゃん……」

「だからひかげちゃん、トカゲちゃんはブッ」

 空気などまったく読まずに藤原の背後から飛びかかったトカゲは、巨体に押されて転んだ彼女の頭をふたたびパクッとくわえた。

「やっぱり食われてるー!!!」

 神崎の踵落としがまたしてもトカゲを襲う。解放された藤原はいっそう涎まみれになった頭を振った。

「く、食われてないよ……」

「いや食われてたよ!? でも、どうしよう……」

 両拳を構えたまま、神崎は改めてトカゲを睨んだ。

 全身を鎧のような鱗と分厚い筋肉に覆われた巨大トカゲは、二度の踵落としを食らったことなどさしたるダメージではないといった様子で、こちらを睨み返している。

 狭い単身者用アパートでは、大技を使うことはできない。このままではジリ貧だ……神崎は唇を噛んだ。

 とにかく冷静にならなければならない。そしてこんなときにとる行動は決まっている。神崎はスキットルを取り出し、ウイスキーをあおった。しかし汗をかいた手がすべり、フタの開いたスキットルは床に落ちた。残ったウイスキーがフローリングの上にまき散らされる。

 その時、トカゲがたじろぐように少し後ろに下がり、「ハアー」という声を出した。その刹那、神崎の脳裏にこれまでの記憶が次々に閃く。

 初めて会った夜、ウイスキー臭い息を吐く自分を見て隠れたこと……ビールの栓を開けた途端に威嚇音を発する姿……。

「これか!」

 神崎は床に落ちたスキットルを拾い、わずかに残った中身をトカゲに向かって振りかけた。普段ならこんなもったいない行為は絶対にやらない彼女だが、親友を守るためにはこれしかない。

(酒よりも大切なものが……私にはあるんだ!!)

 心の中で叫びながらも、神崎の目には涙が光る。

 彼女の読みは当たっていた。ウイスキーをかぶったトカゲは動きを止め、なんと腹を出してその場にひっくり返ってしまったのだ。そっと近寄ってつついてみるが動かない。口先から出た舌が緩慢に動くだけだった。

「よ、酔っぱらってる……?」

 とにかく、この機を逃す手はない。神崎はとどめを刺そうと手刀を振り上げた。その背中に体当たりをかましてきたのは、またしても藤原である。

「やめてー!! ひかげちゃーん!」

「ええい! 諦めなさいタマちゃん! こんなおっきいトカゲ、アパートで飼えるわけないでしょ!?」

「引っ越すから! 頑張って働いて広いところに引っ越すからー!!」

「タマちゃんが食べられちゃうかもしれないんだよ!?」

「やだー! トカゲちゃーん!!」

 藤原は酔っぱらったトカゲに抱き着いて撫で始めた。

「えへへ……かわいいねぇ……お腹すべすべだねぇ……」

「タマちゃん! かわいいだけじゃ動物は飼えないんだよ!?」

 神崎は必死に説得を試みる。「大体かわいいかわいいって言ってるけど、タマちゃん、そのトカゲに名前すらつけてないじゃない!」

「あっ、忘れてた!」

「そんなことある!?」

「ええと、今朝の10時32分だから、この子の名前はじゅうじにしよう」

「そんな適当でいいの!?  いやよくない! 何もかもよくないよ! 手放しなさい!」

「いやだー! お腹がすべすべなんだー!!」

 神崎は溜息と共に手刀を振り下ろした。それはトカゲではなく、藤原の首筋を過たず打った。一瞬で意識を失った藤原が、酔っぱらったトカゲの上に崩れ落ちる。

「やれやれ……」

 神崎は空っぽになったスキットルを拾い上げ、中身を確認して未練がましい溜息を吐いた。

 それからおもむろにスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。

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