第2話 北條小百合

 稲森から連絡があってから二週間。俺は蝉の声を雨のように浴びながら、閑静な住宅街を進んでいた。流れ落ちる汗を拭い、シャツの胸元を軽くばたつかせる。じっとりと汗ばんだシャツは、体に貼り付いて不快だった。

 どれほど技術が進んでも、この暑さだけはどうにもならないらしい。それはこの高級住宅地でも同じだった。


 ここは下鴨の住宅街のなかでも、特に昔からの金持ちばかりが住んでいるらしい。緑に囲まれた洒落た西洋建築や、庭を構えた大きな家々が立ち並ぶ通りは、東京でもあまり見ない。場所柄もあってか、建物や外に飛び出た庭の木々ひとつとっても情緒や品がある。このあたりには小さな屋外劇場も備えた大きな公園もあるようだが、竹藪の向こうに隠されていて、ほとんど見えない。近代的な建物は完全に森の中に隔離されている。


 ――古き良き日本ってか。


 その古き良き、は装飾された一部だけだというのに。平安の貴族社会だけ見て当時の生活を知った気になっているだけだ。


「アクサス、地図を」


 時計型デバイスから、空中に地図が表示される。

 こんなところでデバイスを使うと、自分が未来からやってきたような気になる。

 まったく、稲森のやつ。


 ――『北條小百合のマネージャーは、まだ当時大学生だったっていう妹だ。いまは大学院に通ってるらしいが……。そいつがな、クサイんだよ』

 ――『なにしろ専門は……』


 いったいどこからこんな情報を持ってきたんだ。

 普通なら女優本人じゃないのかと無視してしまうところだが、ことこれが北條小百合となると話が違ってくる。

 北條小百合の正体に迫るのに重要な役割を持っているかもしれないのだ。

 俺は映画の中で笑う北條小百合に思いを馳せた。







 北條小百合は、三年前にデビューした新人女優だ。


 そのデビューはあまりに衝撃的だった。初の主演となった映画「あおぞら食堂」は、彼女の代表作であり、マスコミからは近年の邦画の傑作と称された。

 この映画は物語の舞台となる”あおぞら食堂”を中心に巻き起こる日常を描いた作品だ。社会問題を絶妙に取り入れながら、それらの不穏な要素を背景にして、主人公の芯の強さ、天真爛漫さ、そして人々とのやりとりを描いた作品――ということになっている。


 しかし映画好きからしてみれば、邦画としてはありきたりで使い古されたストーリーだ。

 そもそもこの作品は、当初それほど期待されていなかった。

 たしかに主人公は美人だが、無名の新人。監督もふだんはショートショートを動画サイトに投稿していた人間で、一部の人気はあったが一般的には無名だった。他の役者も、普段は舞台や動画サイトなどで活躍している無名の俳優や声優志望がほとんどだった。

 なんだかんだいいながらハリウッドの権威はまだ失墜せずにいたし、人気アニメの映画のほうがまだ観客動員数が多い。

 飛びついたのは監督のファンである視聴者と、一部の映画好きだけだった。監督としても、隠れた良作程度になれば御の字だっただろう。


 ところがいざ封切りとなると、その前評判は大きくひっくり返ることになる。

 シナリオや映像表現だけなら、まあ良作と言っていい。だが何より、主演である北條小百合に注目が集まった。

 その美貌はもとより、主人公の女性の生き様を圧倒的な存在感で演じきった。ひとつひとつの所作から表情の変化に至るまで、見る者の心に直接訴えかけてくる演技。素人くさくも無く、かといって玄人めいてもいない。画面の向こうにまさにひとつの生命があった。

 星空の下での慟哭。

 晴れ渡る空の下の屈託の無い笑顔。

 雲の下での穏やかな瞳。

 雨の中で傘を放り出し、恋人と踊る軽やかなダンス。


 何より――彼女の優しくも力強い声は、人の心をひきつける何かがあった。

 まさに完璧だった。

 劇中でほんの少しだけ歌われた「青空の下 私と踊ろう」というフレーズは、動画サイトのCMで使われたことで映画を見ていない人まで引き込んだ。


 その噂は一部の映画好きから、興奮した『新人とは思えない』という言葉とともに広まった。

 たいてい主人公に新人俳優やアイドルを起用しても、周りを経験者で固めておけば悪くはならない。しかし彼女は違った。他の誰よりも存在感を持ち、人をぐっと引き込む魅力があった。

 彼女は自然体でありながら、映像の中に人を引き込む。

 監督の技術不足でさえも頭の外に置かせてしまう。

 噂を聞きつけた人々が足を運ぶと、北條小百合について当然どんな人物か、と話題になる。それもそうだろう。その一挙手一投足に人々は魅了され、北條小百合は一躍、時の人となった。


 当時の専門家たちは自称他称にかかわらず凄まじかった。

 テレビ、ネット、雑誌、新聞。

 媒体も、有名無名も問わなかった。

 口々に彼女を褒め称え、とんでもない新人が現れたと賛美した。

 あるいは期待が上がりすぎたからか、特に普通の女優じゃないかと首を傾げる者もいた。

 世間に塗れて魅力が薄れやしないかと気を揉んだかと思えば、所詮は世間を知らぬ小娘と罵倒した。

 今後の邦画やドラマが大きく変わると絶賛する者もいれば、気に食わない鼻っ柱をへし折れと言う者まで、とかく様々だった。

 それほど彼女の存在は劇的だったのだ。


 だが、彼女の最大の魅力は、その神秘性にこそ存在した。

 これだけ騒ぎになっても、彼女は映画以外に露出することはなかった。ずいぶんと勿体ない話だ。本人が果たして騒ぎを知っているのかどうかさえ定かではない。申し込まれた取材はきっぱりとお断りされ、それどころか連絡ですら必ずマネージャーを通じて行われた。

 そんなミステリアスなところも、人々の想像をかき立てる要因だった。


 そんな中で、ネット上では彼女に対するひとつの噂が広まっていった。


 彼女は本当は、存在しない人間なのではないか。

 CGで作られた立体映像。バーチャル・アクター、――《仮想役者》ではないか、と。







 時折地図を確認しながら、やがて塀と門に囲まれたとびきり静かな一角にたどり着いた。

 どこまでも続くような塀は、一角すべてを支配していた。門を探すと、そこには佐野原という表札があった。佐野原家。かつては日本舞踊の家元もやっていたという旧家だ。その経歴に納得しかない。しかし、門にはきちんと防犯の監視システムが付けられているようだ。

 俺はインターホンを押した。

 門構えに似合わぬ音が控えめに響いたあと、がちゃがちゃと受話器を取る音がした。


『はい』

「東都ジャーナルの牧野修司です。佐野原アイさんは」

『……お待ちしておりました。門を開けるのでどうぞ』


 遮るように、インターホンの向こうで再びがちゃりという音が響く。隣でひとりでに門が開いた。

 小さく息を吐きながら、恐る恐る門をくぐり抜ける。

 瞬間、うだるような熱が、ついと吹き飛ばされていった。庭先には深緑が溢れ、涼やかな風が流れていく。小さな木陰の下には水が流れ、ししおどしの冷たい音が静かに響いた。夏を切り取った景色に、めまいさえ覚える。

 俺はなんとか足下の現実感にしがみつき、家屋の玄関に向かって歩き出した。石畳を踏みならし、いささか現実離れした庭園を横目に進んだ。やがて玄関の磨りガラスにスッと影が映ったかと思うと、からからと音を立てて引き戸が開けられた。

 どきりとして目を見開いた。


 風にながれた黒い髪を耳元で抑える姿に、『彼女』の面影があった。

 鎖された瞼が開かれ、視線が交錯する。

 しかし――違う。

 目の前にいるのは『彼女』ではない。幻影は、たちまちにかき消えていた。


「……どうも」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 凜とした双眸が俺を捉え、挑戦するがごとく鋭い視線が注がれる。艶やかな唇が開き、俺の耳へと音を運ぶ。


「佐野原アイです。北條小百合の――妹です」


 からん。と、どこかで冷ややかな音がした。

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