第3話 佐野原アイ
俺は家の中へと通された。
アイと名乗った彼女について、廊下を歩む。庭に面した廊下は、古さの割に音をよく吸収した。通された客間には焦げ茶の高そうなテーブルと、向かい合わせに座布団が敷かれていた。新品の畳のにおいがする。
しばらく待っているように言われ、アイはそのまま出て行った。
誰もいなくなった部屋で座布団に腰を下ろすと、籠もった熱を振り払うようにシャツをつまんで前後に振る。そして、今しがた出て行った女のことを考えた。
――なるほど。確かに……、北條小百合の面影がある。
北條小百合のマネージャーであり、妹だという佐野原アイ。活動期にはまだ大学生だったというが、北條小百合のマネージメントはすべて彼女を通されていた。だがそれどころじゃあない。大学生とはいうが、いまだ日本三大大学に数えられる有名大学のひとつである。情報工学科に在籍し、いまも大学院でそっち方面の研究を続けているという。あまり表に出るようなことはしていないらしいが、彼女の研究は実に興味深い内容だ。
なにしろデジタルコンテンツに関わる研究をしていたのだから。
アイがトレイにグラスを二つ持って戻ってきた。中身は麦茶のようで、氷が涼しげに音を立てた。素直にありがたかった。礼を言って、少しだけ口をつける。冷たい麦茶が喉の奥を通ると、それだけで心地良かった。
「では改めまして。東都ジャーナルで記者をしています、牧野修司と申します」
記者というには少々語弊があるのだが、間違ってはいない。
名刺を前に出すと、アイは静かに受け取った。
目を通す姿は、ずいぶんと手慣れている。
「本日は、無理なお願いを受けてくださり、ありがとうございます」
下げた頭をあげた頃には、アイは名刺をテーブルの左手側へと置いた。
「……いえ」
「堅くならなくても大丈夫ですよ。難しい話をしようっていうんじゃありませんから!」
俺はできるだけにこやかに笑う。
だがアイの唇はいまだ硬く結ばれ、こわばった表情をしていた。
それとも、北條小百合も日常ではこんな風だったのではないか――北條小百合はプライベートをまったく見せなかったし、誰も知らない。そもそもプライベートではまったく違う顔を見せる俳優は五万といる。
だが、手始めは無難な質問から。
少しずつ向こうの警戒心を切り崩していけばいいだろう。
俺はディスプレイノートを取り出すと、タッチペンとともに近くに置いておいた。
「しかし、凄い家ですね。この一帯がアバター・ルームかと思うほどだ」
「ただの古い家ですよ」
「いやいや、東京じゃなかなかお目にかかれませんよ。向こうじゃ、アバターを身につけてる人のほうが多いですけどね」
俺は笑った。
装飾型アクセスデバイスの普及は、人々の生活だけでなくファッションをも劇的に変えた。アバターとは本来、分身となるキャラクターのことだ。だが、いつの時代も若者にかかればその意味は簡単に広範囲に広がってしまう。
本来は俺の時計型デバイスのように、空中ディスプレイで地図を表示したり、遠い相手と話したりといった機能が中心だった。だが、最近ではいわゆる複合現実的なところが目立ってきていた。アバターの宝飾品を表示させて、本物の装飾品のようにしているのだ。お手軽な装飾品というところだ。もちろん本物の宝石には敵わないが、金属アレルギーであるとか、何個も装飾品を持ちたくないという奴には評判はいい。
「アイさんも、学生時代にVRやアバター技術を専門にしていたと聞きましたが、こういったものはお好きでない?」
「私は……あまり自分にごちゃごちゃ付けるのは趣味ではないので」
「なるほど、そういう方もいますよね」
うなずいて、俺は続ける。
「映画好きだと、頑なに付けない方もいるようですよ。初期タイプだと映画館の暗闇で光ってしまうらしくて」
携帯電話やスマホだけでなく、デバイスの電源を切ってください、とアナウンスされるようになった原因だ。
「そういえばアイさんは、お姉さんの映画、ご覧になりました?」
「はい」
返答は思ったとおりに素っ気ない。
これは苦戦しそうだと思うと同時に、早まってはいけないと自制をかける。
「ご覧になってどうでしたか?」
「……そうですね。まったく違う人物のようで驚いたというのが第一印象です。演技なんですから、当然なんですけど」
「やはり、ご家族の前と演技では違いますよね」
「ええ。本当に驚いたし、こんなことができたんだと思いました」
アイはゆったりと頷いた。
しかし、その眼光の鋭さはこちらを探ってくるようだ。俺は何も気が付かないふりをして、にこりと笑った。
「でもお姉さんはすごい役者さんだと思いますよ。初めて拝見したのはやはりあのデビュー作の『あおぞら食堂』なんですがね。最初はわたしも、仕事の一環だと思って見たんです。しかし、見る前の印象は吹き飛びましたよ。まさかこんな人が出てくるとは……月並みな言葉ですが魂が震えた」
「……ありがとうございます。姉に代わって、ですけど」
「いままでインタビューを受けたことがなかったのは、会社などの方針によるものですか?」
北條小百合は今まで一度もインタビューも取材も受けたことがない。
それがテレビであれ、ネットであれ、雑誌であれ、だ。
「そうですね。姉はあまり体が丈夫なほうではなかったので」
「でも、全部断ってらっしゃいましたよね」
「もう引退してますから」
アイははぐらかすように言った。むしろ、引退したからこそこうして俺のように追い続けている者もいる。世間の注目は流れやすいが、北條小百合は実にセンセーショナルな存在であり、そのぶん疑問も膨らんだ。
なぜ、取材を受けないのか。
なぜ、誰もその存在を知らないのか。
北條小百合は、子供時代や学生時代の情報すら出てこない。本人はともかく、友人知人たちまでもが口を噤むわけがないし、大人しくて友人がいなかったというのならそれまでだ。これこそが、北條小百合という人間が本当は存在しなかったのではないか――とも言われる所以だ。こんな時代においてそんなことはありえない。
だからこそ、北條小百合の《仮装役者》説は浮上した。
バーチャル・アクター、《仮装役者》とは、役者そのものではなく、近年提唱されている映像手法のひとつだ。
昔のように緑の画面の前で後から人物や背景を付け足すのではなく、実際にそこに人物を投影することでリアリティを出す手法だ。人間が身につけるタイプのアバターとは違って、こちらは人間がいなくてもそこに表示できる。簡単に言えばホログラムのようなもので、現状でも3Dのキャラクターを投影してライブをするなどして使われている。二次元と結婚するにはいい方法だろう。
しかし、現状では提唱されているだけで、まだ使われたという形跡はない。
要は研究中ということだ。
アクサスによって人体にかぶせるアバター技術は普及したが、存在しない人間を現実に投影するには、まだいろいろと模索する必要があるのだ。
まるで陰謀論のように広まったこの話は、北條小百合のあらゆる情報の遮断によって、ある種の信憑性とともにあった。反対に、ネット掲示板にあげられる「リーク」という名の詳細不明の記事や書き込みは、今も細々と続いているものの信憑性に欠けている。
そしてその存在が、天才的な研究車の手によって成されているのなら。
アイの目は奇妙に挑戦的だった。まるで大事なことは言ってくれないような。
いいだろう。
その挑戦を受けてやる。
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