バーチャル・アクターは眠らない
冬野ゆな
第1話 事の始まり
右側に浮かんだ空中ディスプレイに、犬の姿をしたキャラクターが映し出された。
『青空の下で~私と踊ろう~。どうも! 映画犬のマチです!』
ゆらゆらと左右に動く犬から、明るめの男の声が響く。
その合間に、指はキーボードを叩く。古めかしい電子音で再現されているその音は、投影型キーボードに設定された音だ。実際には指は机を叩いているに過ぎない。それでも指先がエンターを押すと、パチッとひときわ高い音が響いた。
『みなさんは、最近の邦画っていうと何を思い浮かべます? ここ十年くらいはアニメや特撮の方が主流で、なかなかパッとしない印象ですよね。でも四年前にその印象を一気に払拭した映画があるんです! 今日はそんな邦画に現れた新星、『あおぞら食堂』を紹介します!』
俺は手を止めると、3Dの犬が喋っている方へと視線を向けた。
『舞台はアシストデバイスが一般家庭に常備され始めたくらいの、東北の片田舎ですね。撮られた時代的に考えても、都会じゃないとこって考えると普通ですかね』
視線を中央のディスプレイに戻し、アシストデバイスに話しかける。
「アクサス、チャンネル変更。作業用のジャズを」
『かしこまりました』
アシストデバイスであるアクサスは、機械的な言葉とともに犬のキャラクターを消した。代わりに、作業用として誰かが纏めたジャズの動画が再生されはじめる。空中ディスプレイにはお洒落なカフェの一角と思われる映像が映し出される。散らかったマンションの部屋には似つかわしくないが、気分だけは格段に向上する。流れてくるのは名前も知らない曲ばかりだったが、ラジオ代わりにするならこっちのほうがいい。
俺はテーブルに表示されたキーボードから手を離すと、椅子の背にもたれて大きく伸びをした。
まったく、動画サイトの関連動画機能にも困ったものだ。
これだけはいまだに納得がいかない。いくら映画関係の情報をあさっていたからといって、いまは別に初心者向けの映画紹介を見たいわけじゃないんあ。そのあたり、もう少しこまめにアップデートしてほしい。しかし、それが便利な時もあるからなんとも言えない。
休憩がてらコーヒーでも飲むかと立ち上がると、ポーン、という古めかしい電子音とともに、空中ディスプレイがひとつ起動した。
『よう、牧野! いまいいか?』
知人の稲森が、まるで玄関でピンポンでもするかのように映し出される。
俺は眉を顰め、ため息をついた。
*
缶コーヒーを持ってテーブルに戻ると、俺は声をかけた。
「アクサス。繋いでくれ」
『かしこまりました』
古めかしい電子音がもういちどすると、動画サイトの音が自動的に小さくなった。画面の隅に『通信中』の文字が表示される。
『おっ、牧野! ようやく出たか!』
「悪いな、コーヒー取りに行ってたんだよ」
椅子に座ると、俺は遠慮なく缶コーヒーの蓋を開けた。
ぷしゅっ、と良い音が鳴る。
『コーヒーなんて後にしろよ! いま仕事中か?』
「ああ」
『へえ、なんの記事だ』
「芸能人の不倫記事だよ。ほら、おととい話題になったろ。イケメン俳優のさ」
ぐいっとコーヒーを流し込むと、缶コーヒー特有のやや甘い味が口の中に広がった。
エナジー系のドリンクよりはマシだろう。
「奴のせいで、せっかくの新作映画の評判がそっちのけになってる。毒にも薬にもならん。つまらん記事だ」
『ははは。書いてる本人が言ってるんじゃ世話ねぇな!』
そう笑う稲森だって、同業のライターだ。
本人は三文文士と言い張っているが、小説家ではない。だが正しい意味でのライターかと言うと、そうでもない。むしろ、稲森はどこからともなくネタを仕入れては、他の物書きに提供し、時には売りつけることで生計を立てているのだ。売れないお笑い芸人をしていた時代に顔だけは売っていた名残だというが、どこまで本当か怪しいものだ。
それでもまあどこから持ってきたのだ、というようなネタをたまに仕入れてくるので、俺のような売れない物書きにとっては都合のいい存在だ。
『ま、情報はほとんど出ちまってるからなぁ。相手の女が洗いざらい全部売り込んだって話だ。世間様の評判はすこぶる悪くて、俺たちは儲かるってわけだが』
「そうだなあ。だいたい、子供ができたばっかりだっていうのに、そのへんの女とヤろうっていうのが頭が回ってない証拠なのさ」
『言うねえ。だが、同感だ。愛人なんてなあプロの女に高い金を払って囲うのが常識なんだよ。一般人で安く済まそうと思うからこうなる』
俺は笑ってやった。確かにこの俳優は、別れ際に十万渡して関係を終わろうとしていたらしい。さすがに安すぎるし、女を舐めきっているとしか思えない行動だ。結果は当然のごとく。激怒した女はマスコミにたれ込んで、この有様というわけだ。
俳優の不倫をここまで炎上させる世間も世間だが、このご時世、うまく隠し通そうなんてのが間違っているのだ。
「それで? 今日は何の用だ? まさかこの男をやり玉にあげて、公開説教でもしようってのか?」
『ははは。まさか。そんなつまんねぇ話、持ってくると思うか?』
稲森はそう言うと、身を乗り出した。
内緒話でもするように、声を潜めた。
『おまえ、北條小百合って覚えてるか?』
「……北條小百合だって?」
俺は思わず聞き返した。たるみきった意識が一瞬にして引き締まる。
『そうだ、デビューからたった二年で突如引退した新人女優。お前だって覚えてるだろ? あんな凄い逸材は、まだ現れてねぇ。後にも先にも北條小百合だけだ。まさしく彗星の如く現れた女優だよ』
「それが、どうしたんだ」
『そのマネージャーがな、見つかったんだよ』
そう言って稲森は、俺を試すように笑った。
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