第34話 たくさんの告白
走る、走る、走る。
後方から迫ってくる黒霧は、今や見なくても知覚できてしまう。
「めーくんっ!」
後ろから声をぶつけられるけれど、そんなもので止まるわけにはいかない。
僕にはやるべきことがある。
自殺という、大切極まりないことが。
「待って、話があるの‼」
待ってと言われて、待つことなんてできない。
階段を複数段抜かして、痛みを伴いながら駆け上がる。この程度の苦痛なんて、終わりに待ち受けるだろう衝撃に比べれば何でもないはずだ。
そもそも、命が終わる時に痛覚は機能するのだろうか?
微塵の予想すらもつかない。昨晩考えに考えたが結論なんて出なかった。
きっと、答えも得られないまま終わっていくのだろう。
今何階にいるかなんて数えている暇もなくて、古びた重厚なドアが見えてきたことで、ようやく目的地に着いたのだと知った。
走る勢いそのままに、鉄扉に向かって突撃しながらドアハンドルを回す。体重の全てを注ぎ込んで、無機物の塊を押し動かす。
ぼろさも極まった蝶番や鍵の機構が振動で揺れて、不快極まりない音を生産し続ける。
何とか質量に勝つも、勢い余って屋上の地面に体を叩きつけてしまう。
転倒。
その事実をようやく把握できたころには、僕は屋上の柵に手をかけていた。
あと少しだ。
体さえ柵を超してしまえば、あとは重力に身を任せるだけで終わる。
問題はこの障害物が、胸辺りの高さまであることで。
運動能力が低い僕にとっては、それは大変な困難だった。
「めーくんっ! 聞いて、聞いてほしいことがあるのっ!」
「何も言わないでっ! お願いだから! 僕はもう、これ以上罪を重ねたくないんです!」
僕を追ってきた会長に向けて、絶叫にすらならない声をぶつける。
柵に手をかけ、身を乗り出して――強い力に阻止された。引きちぎらんばかりの勢いで掴みかかってきた彼女の手を、避けることができなかった。
振りほどこうとするも、不安定な体勢で力がうまく入らない。先輩は芽兎にも負けるぐらい腕力が弱いはずなのに。
「力、強いでしょ。か弱い方が可愛いかなと思って、隠してたんだ」
右腕をがっしりと掴まれ、先輩そのものを重しにされて、体を上方向に運ぶことなんてかなわない。
「聞いて、めーくん。わたしの言いたいことを、聞いて」
「聞けません! 僕が耳にしてしまえば、会長は――」
言葉が詰まる。
今までの自分の愚かさと、消えていった人たちのことを思うと――体の内側から引き裂かれそうな感覚が、僕をひたすらに苛む。
「姉村癒は――きっと――消えますっ‼」
「うん、知ってる」
たった四文字で、世界が壊れていく。
衝撃を撃ち込まれた僕の視界は、ぐらりと揺れてから一回転。
明滅する景色の中で見えるのは、穏やかにほほ笑む少女の姿。
それと、彼女の後方からじりじりと迫る黒霧。
「え……⁉」
驚愕で腹部から押し出された、僕の声はひどく情けなく。
「驚いた? おねーさんにね、知らないことはないの」
悪戯っぽく笑う彼女の言葉は、年上に相応しい落ち着きぶりで。
「なんて、ね。たくさんたくさん一緒に過ごしてきて、知らないことはないはずなのに――君のことはもっとずっと知りたい。何もかもを教えてほしい。この気持ちは尽きることなんてなくて、これが夢中ってことみたい」
先輩が口を開くたびに、言葉を少しずつ紡ぐごとに、弱い音を喉から漏らしていくにつれて、あのリミットが迫りに来る。
もう屋上のほとんどは真っ黒く染まって、残っているのは僕ら二人の立つ場所くらい。
両腕を軽く広げるのが精一杯のスペースで、できることはなんだろう?
死ぬことだけだ。
指も手のひらも腕も関節も筋肉も、全てを壊す覚悟で力を入れる。唯一自由な左腕で、どうにか拘束を解こうと試みる。
どうせ全部使い物にならなくなるのだから、どれだけ壊れたって構わない。
「離して、くださいっ!」
「やだ、離さない。絶対に――離してなんかやるもんか、こういう時は、年上に大人しく従いなさい。そうやって教えたでしょ、何回も」
それでも力は拮抗して、ちっとも変化しない状況。
僕は決死。
しかし相手も決死。
もみくちゃになる中で僕たちの距離が近づいて、互いが互いの瞳を覗き込む。
姉村癒の瞳と、そこに映る事他芽汰の瞳は、同じだった。
同じ色をしていた。
同じ光を宿していた。
同じ想いを――籠めていた。
「なんでこんなに、なっちゃうんだろうね」
困ったような顔をして、姉村会長は苦笑して、
「会って話して触れてみて、『ああ、上手く話せなかった』って思っちゃうのに、『また失敗したー』って後悔するのに、『もうやめよう会わないようにしよう』って布団でじたばたするのに、十秒もすれば――また会いたくなっちゃう」
まるで事他芽汰を丸ごと知り尽くしてるみたいに、僕の動きを綺麗に抑え込んで、
「『もう諦めよう』って、『誰かに譲ろう』って、その方が本人のためだって――何回理由を作っても、一つの気持ちに勝てないんだよね」
苦笑が微笑みに変わって、本物の笑顔に転じて、
「今もそう、ほんとにそう、彼のところに行ったらダメーって、死んじゃうなーって、消えちゃうなーって、頭が警鐘を鳴らしても、体は勝手に動いちゃうの」
楽しそうに、心底楽しそうに、破顔する会長は止まらない。
「だからね、めーくん、わたし――」
ダメだ。
これではきっと、間に合わない。
僕の無能な脳が、自由な左手で彼女の口を塞ごう、と考えた時には――既に優秀な体が動作を終えていた。
事の成否は、さておいて。
僕の体が伸ばした左腕は、薄皮一枚のところで躱されて――残されたのは失敗したという結果だけ。
けれども、口を塞ぐという目的はたった数秒後に果たされる。
腕を避けた先輩は、そのまま僕に迫って、近づいて、距離を詰めて――僕らの間にあったスペースを押しつぶした。
僕と彼女の隙間を、ゼロにした。
優しく熱い温度に遅れて、柔らかな感触がやってくる。
この行為がキスだと頭が認識したのは――それよりも更に後のこと。
「「っ!」」
呼吸すら止まる。
もちろん言葉も。
だから僕の目的は達成された。皮肉なことに、姉村先輩当人の行動によって。
されどそれは、ほんの一瞬だけ。
すぐさま過ぎ去ってしまう、夢のような時間であることに変わりはない。
熱が剥がれていく。
体温が離れていく。
とまっていた呼吸がまた始まって、乱れた吐息が笑みに変わる。
「えへ、しちゃった」
いたずらっぽく微笑む彼女の姿を、とても非難することなんてできなくて。
「これ、いいね……また、したいな」
欲求を直球に口にすることを、否定なんてできなくて。
「だから――言うね」
その真っすぐな視線を前に、僕は何にもできなくて――。
だらりと彼女の力が抜けて、僕の右腕が解放される。
「姉村癒は、おねーさんは、わたしは――」
日常を侵食する黒は、もはや粒子のカタチを成しておらず。
怪物のカタチを取りつつある闇は、彼女の背に触れていて。
「キミのことが、事他芽汰のことが――」
今ここに、怪物は成った。
いつかの日と、どこかの場所と同様に。
そして球形の化け物は、大きな口を開く。
セカイすらも、安易に飲みこんでしまいそうなほどに。
「すき」
球体の口が閉じる。
わずか一口で、人一人の質量が丸ごと消失した。
姉村癒は、髪一本すら残さずに世界から失われた。
ここに残されたのは、僕と黒い塊だけ。
怪物は平然と宙に浮遊して、何も発することはない。
音も、物も。
ああ、やはり、これは『消費』だ。『捕食』ではなく、単なる『消費』だ。
そして、消え費やした後にやってくるモノは決まっている。
「センパイっ‼」
安心する声がして、本能的にそちらを向くと――息を荒げた塩峰の姿。
それを合図とするかのように、怪物は黒煙となって大気に溶け始める。
空気に拡散して濃度を下げていくうちに、怪物が居た地点に人型のシルエットが浮かび上がる。時間経過に伴って形をはっきりさせる人影は、ツインテールの髪型が特徴的だった。
とても見覚えのある、ヘアスタイルだった。
「あれは――天賦、つんで、さん……? あ、ああ! わたしは、また、また忘却して――」
その怪奇な光景を見て、後輩が震えた声で言葉にクエスチョンマークを付ける。
完全に黒い霧が晴れて、屋上に音もなく倒れ落ちるのは一人の少女だった。
服装は制服。それも僕らと同じもの。リボンの色を見れば、学年も一緒であることが理解できてしまう。
この子は、僕が知らない――否、今知った――いるはずの無い、幼馴染。
事他芽汰があれだけお世話になった、女の子。
「なんだよそれ……僕ってやつは、ほんとうに――‼」
「あはっ! あはあはははははっははああはっ! そうだよその通りっ! いやあ、なんて面白いんだろうキミってやつは‼ ここでまた呼び戻すとはね、いやはや、化け物にも許容できる限度ってモノがあるのに!」
ケタケタと壊れたおもちゃのような笑い声とともに、黒霧が再度集結する。
先ほどとは比べるまでもない早さで粒子はヒトガタに凝縮され、幼女モドキが組みあがる。
過剰な装飾で彩られたゴスロリドレスを身にまとい、柊羽魔はふわりと舞い降りた。
そして僕らに向けて、その哄笑を振りまいて、
「さあ、ワタシの望みを叶えてくれ! たんっと楽しませておくれよ、ワタシの大好きな人よ!」
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