第33話 楽しい通学路の終わり

「「え⁉」」


 この状態の塩峰と相対して、平常心を保つことは難しい。余程のことがない限りは冷静な上、こちらが突かれて動揺してしまうことを的確にいじりにくる。


「キスぐらい、別にどうってことないとは思いませんか? センパイがどこかをぶつけたり、何かに躓いて転倒することに比べれば――たかが唇が、身体の一部が接触することぐらい、大したことないと思いませんか?」


 ――絶対にそんなこと思っていない。

 僕は心の中で静かに突っ込んだ。

 単純に年下である芽兎の反応が面白くなって、どうしてもイジろうと躍起になって、無理をして嘘をついているに決まっている。


「それに、その相手はセンパイですし、今更別に――」

「へっ、今なんて⁉」

「塩峰、言い過ぎ」

「なに――むぐ」


 僕は静かに歩いて塩峰の背後に回って、口を手で塞いだ。

 あることないことはおろか、ないことだけを言い始めたのは流石に看過できない。この状態の後輩がちょっとした注意の言葉ぐらいで止まるわけがないので、やむを得ず実力行使だ。


「お、おにーちゃんっ、タッチは禁止!」


 混乱から復帰した芽兎が、またまた僕と塩峰を引き離す。


「しっかり距離を取らないと、うつっちゃうよ⁉」

「何がですか。わたしは病気ではありませんよ。健康そのものですよ」

「風邪とかじゃなくて、えっち系のなにかが!」

「芽兎さん、シンプルに失礼ですね……センパイの教育は一体どうなってるのですか……」

「いや、これは普通に自業自得だと思うよ」

「そんな。わたしは安心安全健全コウハイですよ」


 塩峰は割とショックな顔をしていた。意外過ぎる。

 

「妹さんに、そんな印象を持たれたままでは困ります」

「だから芽兎はおにーちゃんの妹で、塩峰さんの妹ではないんですって」


 不用意な失言に頬を膨らませ、僕の妹は感情に任せて両腕をぶんぶんと振り乱し始めた。

 珍しい、どころか初見の動作だ。 


「塩峰さん、ところで、さっきの話は本当ですか⁉」

「芽兎さんがわたしの妹うんぬんの話ですか?」

「違います! 二重の意味で違いますっ‼ そうではなく、その、き、きふの――」

「棋譜? 妹さんは将棋クラブでしたっけ?」

「芽兎、その話は真っ赤な嘘で――」

「芽兎はおにーちゃんじゃなくて塩峰さんに質問してるの! あと妹じゃない! 恋敵!」

「はい……すみません……」 


 兄の扱いは悲しいほど雑だった。

 ライバル視していても、芽兎にとっては僕よりも塩峰の方が信頼に値するらしい。


「こほん、話を戻します。で、あの話は本当なんですか塩峰さん?」

「さあ、どうでしょう?」


 今すぐ、余計なことしか言わないあの小さな口を閉じに行きたい。いや閉じに行こうと一歩踏み出したのだけど、その時点でお目付け役に妨害されてしまった。


「ぐぬ、どうにかしてぜんぶ喋ってもらいたい……あたしは一体どうすれば……」

「芽兎さん、今はそんなことより大事なことがありますよ」

「冗談言わないでください。芽兎たちにとって、おにーちゃんのこと以上に大事なことなんて無いですよね――塩峰さん?」

「ええ、ですが――始業時間に間に合わない悪い子は、『おにーちゃん』も嫌いになっちゃうと思いますよ。ねぇ、センパイ?」

「嫌うまではいかないけれど……もうこんな時間か。芽兎は急いだほうがいいかもね」

「ほらほら、『おにーちゃん』もこう言っていることですし」


 塩峰が取り出したスマホに映し出される時刻を見て、芽兎はさっと顔を青ざめさせた後、いらだちに顔を赤くした。


「次、次会ったらっ、絶対聞き出しますからねー! おにーちゃん、お別れのハ――」

「おや、こっちは学校の方向じゃないですよ」

「このーっ⁉ 次は絶対にこうはいきませんからね~~~っ‼ あと、おにーちゃんをよろしくお願いしますねーっ!」 


 たっと走り出す妹に、遠くなっていく大音声。元々ちんまりした体が、みるみるうちに小さくなって――曲がり角に消えていった。


 じゃあね、と僕はお別れを言う。

 デジャヴだ。

 というか、昨日の朝も同じ光景を見たような。既視感が脳を襲う。


「芽兎さんとお話するのは、ほんっとうに楽しいですね」

「あっちからしたら、とんだ災難だと思うけどね……」

「む、心外です。大体センパイが――」


 時間に追われて疾走して行った芽兎とは反対に、僕らはゆっくりと学校への道を歩き出した。楽しく話しながら、おかしなことを笑いながら。

 いつまでもこんな時間が続けばいいのだけど、残念ながら通学路は無限じゃない。


 僕らがどんなにゆったり歩を進めても、いや、僕の鈍い歩みにどれだけ塩峰を付き合わせても、いずれは学校に到着してしまう。

 濃く黒い靄に、全体を包まれた校舎に。

 黒色が、見えなければよかった。情けないことに、今になっても怖い。足が震える。

 それでも、震える両足で前に進む。


「どうしたんですか、センパイ?」

「何でもないよ。ただ、学校を目に焼き付けていただけ」


 二人で昇降口まで向かう中で、霧が濃くなっている場所を見つける。三年下駄箱周辺の濃度が、異常なまでに高い。

 墨に空間を塗り潰されたかのようだった。


 一旦塩峰と別れて、一瞬でも気を抜けば吸い込まれてしまいそうな闇からも目を背けて、僕は下駄箱を開けた。

 そこにあるのは、僕の上履きだけではなかった。


 一通の手紙。

 ハートで封をされたそれは、俗にいえばラブレター。

 表裏に何も書かれていなくとも、差出人は分かってしまう。


「ねぇ、めーくん」


 声が掛けられる。

 姉村癒は言っていた。――次に会うときは、覚悟しておいてねと。

 黒霧がどこからともなく湧き出してきて、一瞬で世界は黒に満ちる。

 僕がずっと目を背け、隠し続けていたことを、嫌というほど見せつける。



 人を『消費』しては『再生産』する存在。

 それが観測者の――世界を見ている人間の――僕の命に従い参上する。

 観測者の不利益となる存在を消そうと、出現する。



「私には――わたしには、大事な話があるの」


 ぐーたらでも会長でもない、二面の仮面を外した、本当の姉村癒が表れる。

 ようやく全てを終わらせる時が来たのだと悟って、僕は屋上に向けて駆け出した。


 さあ、おしまいにしよう――このどうしようもない僕を。

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