第32話 妹 vs コウハイ

「芽兎さんは、普段からあんなにも手間のかかった朝食を作っていたのですか……これはわたしも、一から鍛え成さねばなりませんね……」


 うざったいぐらいの朝日に照らされた通学路にて、塩峰は難しい顔をしながら呟いた。

 顎に右手を添えて下を見ながら歩いている様子は、ひどく危なっかしい。三人での通学でなければ、とっくに電柱にぶつかっていそうなほどだ。


「芽兎は、いつもどおりにいつものようにいつもみたいに、朝食を作っただけだよ? 塩峰さんが事他家を訪れたからといって、特別気合を入れたりなんてぜんぜんまったくこれっぽっちもしてないんだよ?」


 成長途中の胸を張って、相当誇らしげな口調の妹。動揺したのか、語尾が一辺倒だし。

 僕からすると、今朝の朝食は相当力が入っていたように思えたのだけど、それは秘密にしておこう。

 やけに芽兎は塩峰をライバル視していたのに、お手製料理を褒められて気分が完全に上向きだし。誰が見ても分かるくらいに。


 今にもスキップしそうだ。これはこれで危なっかしい。

 それにしても、朝から家に家族以外の人間がいるというのは新鮮だった。

 うまく言葉にできない良さがある。何故だか懐かしささえ感じさせる、この得体の知れない感情に、僕はどんな名前を付けたら良いのだろう? 


 こんな気分を味わえるのなら、塩峰には毎日だって我が家のテーブルを囲んでほしい。

 きっと芽兎がとんでもなく怒るし、塩峰にも都合があるから無理なことは重々承知だ。だからそう、後輩と僕の家がとても近ければ――なんてことを空想する。

 世間一般で言う、ご近所さん同士であれば――もっと強欲に言ってしまえば、幼馴染が欲しいだなんて思って――僕は最低だ。

 頭の中がぼやけているけど、自分が最低だということはわかる。


「おにーちゃん、そんなに下向いて歩いてたら、電信柱とか通行人にぶつかっちゃうよ。ちゃんと前見てね」

「――ん、ああ、だいじょうぶ」

「絶対大丈夫じゃない……」

「センパイ、前見てください、大変なことになりますよ。ね、前、まーえっ」

「ん、だからだいじょうぶだって――え」


 内から外へ。

 一気に意識の向く先が切り替わる。思考に集中していたはずの僕が、熱によって現実に引き戻される。

 そう、熱だ。温度だ。心の奥底から安心感を引き出す、丁度いい暖かさの――


「ほ、ほら、言ったじゃないですか。わたしと、大事な後輩と、真っ正面からごっつんこしちゃってますよ」


 熱の発生源に目を向けると、大きな瞳にたちまち視界を占有される。相手の双眸に写し出される自分の眼は、鏡で見るより魅力的に思えた。


「え」


 僕の口から勝手に言葉が飛び出て、少しばかり体が前後に揺れる。

 そのせいでお互いの鼻先が一瞬触れ合って――というか触れ合うような至近距離だったのか――体温が直にやり取りされる。


 たった一瞬、されど一瞬。

 点と点が重なっただけの接触で、後輩の暖かさが僕の方に流れ込んでくる。きっと塩峰の方からは、熱さで頬を真っ赤にした僕が見えているにちがいない。同じように、白すぎる肌に紅を差した少女が、僕からもばっちり見えている。

 ここまで数秒。

 しかし、脳に流れ込んでくる映像は、やけにスロー。


「ほんと、ほんとっ、ほんっと、油断も隙もあったものじゃ――」


 視界の端で、素早い動きをする人影が一つ。迷いなど微塵もなく、こちらにまっすぐ飛びかかってくる。

 最初は僕に向かって突撃しに来たのかと思ったのだけど、予想は綺麗に外れる。

 芽兎はものの見事に、僕と塩峰間の極めて狭い空間に入ってみせた。そして二つの壁(塩峰に怒られてしまいそうな比喩だ)の間でつっかえ棒のように、両手をぴんと伸ばす。


 感情がたっぷり籠った手のひらの張り出しを受けて、僕らの体は遠ざけられる。

 突きの勢いを持て余して、何度も危ういステップを踏む塩峰。体勢を整える寸暇すら与えないで、妹はすぐさま距離を詰めて、問い詰めにもかかる。


「急に! そういうこと! しないで‼ ください‼‼ 妬くでしょ!」

「センパイが、危なかったので。このままだとセンパイは、わたしでなくて固い電柱にぶつかっていました」

「確かにおにーちゃんは危なかったですけど、危なっかしかったですけど、塩峰さんも十分危ないですよっ! その、色んな意味で……」


 急に声量が下がった隙を見逃がさず、小悪魔系後輩は口を出す。


「はて、色んな意味とは、一体どのような意味でしょう? わたしはぜんぜんまったく、リスクは無かったと思うのですけど」

「そ、それは、えと、あの……もし、あのままおにーちゃんがぼけっとし続けて、塩峰さんに衝突していたら――」

「衝突していたら?」

「角度的に、その、き、きしゅ、していたかと……」


 よりにもよって、最悪なところで噛んでしまっていた。

 完熟リンゴみたいになった芽兎の顔と、微炭酸が抜けるような発音とを見て聞いて、塩峰の口角がほんのわずかに上がる。


 ああ、本当に悪魔みたいな笑顔だ……。

 さっきまでは自分が顔を赤らめていたのに、そんな不都合な事実なぞなかったかのように振舞っている。


「キスが、何か問題でしょうか?」

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