第30話 朝に妹はつきもの

「おにーちゃーん、おーきーてーるー? おきてないと、うれしーよー……」


 妹は朝からいつも通りで、救われる。僕が怪物に消されないよう、心の中は明るく保たなくちゃいけないから。


「おきてないねー、やった。おにーちゃんだいすき。ほんとすき」


 彼女の第一声をモーニングコールと呼ぶには、あまりに小さすぎたた。

 音量は極限まで抑えられていて、聞こえてくるのは大半が吐息とリップノイズ。それを至近距離で浴びせられては、たまったものではない。


 とにかく、くすぐったくて仕方がないのだ。

 意地でも反応しまいとするが、そう都合よく体をコントロールできるはずもなく。


「おーにーいーちゃーん?」


 前回よりもゆったりした発声。至近距離で耳朶を舐めるような声を、僕は何とかして耐えきったつもりで――耐えられなかった。身体が微動した結果、


「むむ、あやしいなぁー」


 思いっきり怪しまれていた。いくらなんでも疑り深すぎる。

 それでも接近を止めないのは、勇者と称えるべきか無謀と貶すべきか。

 ほんとは病気だと諭すべきだろうけど。


「今日は外も静かだし、まあ起きないかな……」


 好条件(僕にとっては悪条件)も重なって楽観視を重ねる我が妹。

 今日ばかりは会長が我が家の前に来て、若干騒いでほしかった。

 というか、今朝は会長が来ていないらしい。


「ん……?」


 僕にぎりぎり触れないように跨っていたと思われる芽兎が、何やら異変を感じ取ってクエスチョンマークを浮かべる。


「音……?」


 ちなみに僕にはまったく聞き取れない。


「泥棒……?」


 足音無しに、芽兎は僕から遠ざかって部屋から出ていった。熱が遠ざかっていくので、聴覚に頼らずとも分かる。

 不審者が来ていると疑うのなら、せめて兄を起こして同伴させてほしい。危ないから。

 階段を下りている芽兎に気づかれないように、僕も起きて自室から出る。


 そろりそろりと階を降りると、がちゃんと躊躇なく玄関ドアを開け放つ音がした。小さな背を追うと、不用心なことに開けっ放しの玄関が待ち受けていた。


「んー?」


 おとなしく後をつけると、警察犬じみた動きで地面を見つつ、なにかを探している芽兎の姿があった。妹はその体勢のまま、我が家の脇にある小道に突入していく。

 少女に何が見えているか僕にはまるで分からないが、そのみっともない行為に躊躇いは欠片も見られない。


 確信と使命感に満ちた、機敏な動作だった。

 その動作の源は何だろうと首を傾げていると、視界の端にふわふわのくせっ毛が一房映り込む。小さな庭の植え込み越しに、特徴的な御髪がふよふよと朝の風に揺れている。

 あんな髪、僕には見覚えしかない。


 どうやら妹は、聴覚に優れていようとも視覚の方面では弱かったらしい。

 下を向いて捜索をしていたので、当然と言えば当然なのだけど。

 そんな妹セキュリティをかいくぐって、何故か、自宅敷地内にてかくれんぼを行っている我がコウハイ。

 この光景を見れば、気になってしまうのが人間というものだ。


 ていうか普通に不法侵入である。

 早朝からガーデニングを行っていました、なんて言い訳じゃ済まされない。

 愛すべき下級生が逮捕されてしまう前に、僕はゆっくり歩いて下手人の確保に向かう。


 すると気取られたのか、ふわふわ髪は僕からほんの少し遠ざかっていく。しかし、ただそれだけ。この場から逃走する意思はおろか、これ以上距離を取ろうとする素振りすらない。

 向こうはどうやら僕の存在に、気付いていないらしい。


 ならば。

 僕はダッと駆け出して、塩峰の迅速な捕獲に切り替えた。

 ここで、僕が完璧に失念していることが一つ。

 事他芽汰は、決して運動性能に優れていない――むしろ世間一般の男子高校生と比べれば、劣っていることだった。

 静かな接近からいきなりの加速など、このぽんこつな体にできるわけもなく。

 けれど塩峰を逃さないという心はきちんと働いて、体勢を崩しつつある体を無理矢理に駆動させようとする。


「わぁっ⁉」

「へ、センパ――きゃあっ⁉」


 僕は倒れこみながら、そして塩峰は倒されながら――両名共に転倒。


「はっ、おにーちゃんの声が⁉ そして――塩峰さんっ⁉」


 僕らの悲鳴を聞き取った芽兎は、逃げ出したうさぎもびっくりの速さで駆けつける。

 そして、少女は目にした。

 実兄が自宅に不法侵入したJKを押し倒している光景を。


「――は?」


 およそ、小学五年生が出してはいけないだろう音程の声がした。


「お兄――おにーちゃん、寝てたはずじゃ?」

「あはは……」

「塩峰さん、時間厳守って言いだしたのは、あなたでしたよね?」

「あはは……」


 二人そろって同じような苦笑い。


「急いで、離れてください。うちの敷地で、へんなこと、だめ、ぜったい」

「「はい」」


 妹の指示に従う声が二つ、ぴったりと重なりあった。それと同時に、僕らは正座した。


「芽兎、なによりもそのシンクロに怒っちゃいそうかも。ジェラシーやばい」


 これ以上ない誠実な姿勢が、逆に火に油を注ぐ格好となった。


「まあいっか、偶然かもしれないし……それで、塩峰さん」

「はい、なんでしょう? どうしましたか?」

「うう、とってもやりづらい……。まるで何もなかったかのように、こっちを見ないでください……。ど、どうして、我が家に侵入なんかしたんですか」

「み、道に、迷って?」

「うそつき。おにーちゃん要素が移ってる。カレシに影響される女みたい」

「そんな、わたしが彼女なんて、そんなそんな、その程度じゃ終わりませんよ」

「この女、幸せそうに生きてていいな……芽兎もそうなりたい……」


 完全に敬語がどこかにいってしまっていた。妹から塩峰への敬意が、いつのまにか霧散している。


「ほんとのこと言ってください、塩峰さん。さっさと白状してください」

「あの、その、会長さんがですね、昨夜から見当たらないので……」


 年下相手にもぞもぞしながら、塩峰は言い訳を続ける。


「もしやもしかして、ちゃっかりしっかりセンパイの家にこそこそ忍び込んでのではないかな、なんて」

「それがどうして、事他家の小さな庭に侵入する理由になるんです?」

「センパイを守る義務が、センパイを見守る義務が、わたしにはありますので」

「いやいや、そんな義務ないですよ。センパイとやらを見守る義務も、そのために我が家に無断で侵入する権利も、塩峰さんには一切合切ないですよ」


 きっぱりと謎理論を否定して、芽兎は更なる非難を紡ごうとする。


「そういえば、昨日もおにーちゃんを連れまわしてましたよね? 人の時間まで使うなんて、塩峰さんがルール違反じゃ……?」

「会長さんが早くご帰宅なさって見つからないのだと、センパイに聞いて――探していただけです」

「そんな……本当ですか?」

「わたしの言葉が信じられないなら、センパイに――あなたの素敵なお兄さんに訊ねたらどうでしょう」

「……もう、塩峰さん、そういうとこある……」

「どういうとこですか? 詳しくお願いします。今後の参考にしますから」

「すっごく、ずるいとこです。真っすぐ進むところが、搦め手ばっかのあたしとは正反対」


 愛らしく口を尖らせてから、妹は僕の方向へと向き直り、


「おにーちゃん、今の話、ほんと?」

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