第29話 最後の眠り
「説教、長かった……」
自室に辿り着くと口から言葉が零れた。そのままふらふら歩いて、ベッドに倒れこむ。
「おやおや、愚痴は良くないぞ? 不和の元だからな。まあ、キミにとっての良くないは、ワタシにとっての良いなのだがな」
背筋が凍る。心臓をきゅっと締め付ける感情には蓋をする。無視だ。
「おい、あれ? 聞こえていないのか? おい、おーい……」
それにしても、妹による二時間のお説教は中々ハードだった。始業式や終業式の退屈な演説とは異なり、身近なことに対する正論が展開されるものだから、心労が半端ない。
逃げることも寝ることもできず、ただ投じられる言葉を心に刻むだけの時間。今回は完全に僕が悪いので、お言葉がより一層重くのしかかってくる。
積み重なった疲労と心労に寝転んだ体を押しつぶされていると、どうしても、妹に説かれたことを再度考えこんでしまう。
お昼の時、姉村癒が何を考えていたかについて。
何をしようとしていたかについて。
僕はあの時、どのように行動すべきだったかについて。
心が重たくなると、見える世界が黒い霧に浸食されていく。
「――こほん! おやおや、悩みごとかい? いいねいいね、キミはそうやって悩み苦しんでいるのがお似合いだよ」
こういう時でも、あいつはしつこく話しかけてくる。コロコロと鈴が転がるような声音と、うざったい言葉が混ざり合って、僕の頭を一層悩ませる。
無視を継続しようとしたけれど、童女は意地でも会話を成立させようとしていた。
「いやあ、実に興味深いね。あそこまで長くつまらない説教をして、キミの妹は消えなかった。それどころか、黒霧が微塵も現れないときた! いやあ、本当に面白い」
無理にぺらぺらと喋っているのが、少し可哀そ――うわ睨まれた、とんでもない目つきで。そろそろ、口を開かなくちゃいけないらしい。平静を維持しろ、怯えるな。煽れ。
「――『観測者』とやらの、好みだったんじゃないの」
「ああ、そうかそうか! ワタシの創造主はマゾだったか、はっはっはっ! 自罰が好きな輩だったか! はははっ!」
「随分と楽しそうだね」
「ああ、楽しいさ。ワタシが好きなことは、予想が裏切られることでね。それと、人が歪んていくところも好きだ」
「趣味が、悪いね」
「怪物だからな、悪いことが良いんだよ」
喋っているだけで疲れる。今現在僕が酷使しているのは喉と脳だけのはずが、全身が重くて重くて仕方がない。
「ふふ、疲れたかい?」
「明白なことをわざわざ聞かないで」
「わざわざ、こうして聞くからこそのワタシだろう?」
ああ、至極面倒だ。これが年下のカタチをしていなければ、何をしているか分からない。
手が出ているかも。
暴力行為が有効でないことを忘れて、また殴りかかってしまいそうだ。
相手は化け物であり、黒霧から生まれ落ちた存在だ。きっとどんなに拳をぶつけても、ダメージは少しも期待できないだろう。それはきっと、言葉でも同じこと。
「何やら物騒なことを考えているね? 恐ろしいなぁ、ワタシはこれでも幼女だぞ?」
「着ぐるみと一緒でしょ。中身はひどくて見れたものじゃないはず」
「いくらなんでもひどいな。もし、ワタシの言うことが本物であったとしたら――どうするんだい?」
「その時は死んでもいいかな。命を賭けたっていい。どうせ、こんな命だ」
「言うね。威勢がいいのは好きだよ」
「化け物に好かれても嬉しくないよ」
「知ってる。これまでのキミの反応からね。ワタシはキミを永い間見てきたんだ」
反応に手応えがない。会話しているという感覚が一ミリだって得られない。これならその辺の壁に向かって話しかけた方がマシ。
「壁だなんて、ひどいことを考えるね。ワタシにだって、心ぐらいはあるかもしれないのに」
「どうして内心の自由すらも侵しに来るの? その能力は化け物が備えている力?」
「キミの心など、見ればわかるさ。ワタシにはキミがわかっているからね」
「勘違いもここまでくると清々しいね」
さりげなく柊羽魔を睨むと、嫌でも漂う黒い靄が視界を妨げてくる。心なしかいつもよりも濃度が増している闇は、僕らに纏わりついて離れようとはしない。
吸い込もうとも目に入れようとも、まったく害はないのに――人を消す煙。
人を飲み込んで、別人に作り変えてしまう怪物。
柊羽魔はともかくとして、感情を有すとは思えないあの異形は――まるで機械。
仕組みやシステムと呼んだって、何一つ不都合のないモノで――。
ああ、そうだ。不都合の、ない……。誰にとっても、僕にとっても……。
「どうしたんだい、そんな銃弾を喰らったような顔をして。何か大事なことにでも、気がついてしまったかい?」
「いいや、別に」
「そうか、それならばいいが」
幼女モドキは一旦言葉に区切りをつけて、
「気がついても、例え真理を知ったとしても、それはそれで面白い……」
くつくつと、特徴的な笑いがこの部屋に響き渡る。やけにその音は僕の部屋に馴染んでいて、奇妙なことにノスタルジィまで喚起されてしまう。
異物でしかない黒霧が部屋に漂う中、ふわりと宙で漂う彼女。
その姿はここに在るべくして有ったようで、何の違和感も僕に抱かせない。
「にしても、随分とつまらない部屋だ……。何かないのかい?」
「何かって、何。普通でいいんだ。普通が一番。誰もが特別を求めるわけじゃないんだよ」
「柄も何もない真っ白なベッドに、カーペットも敷いていないフローリングそのままの床……、教科書が並んだ本棚に、まるで使用した痕跡がない机――それ以外にインテリアらしいインテリアもない。空っぽだ。何もない。はっ、どちらが怪物か。この嘘つきめ」
すいすい空中を移動しながら、あれこれ物色し始めた彼女は、三分と経たずに検分をすっかり止めてしまった。
「こんな場所で暮らしていたら、ワタシは三日と経たずして死んでしまうだろうな」
「実際に暮らしている人がいることを忘れないでくれるかな」
「キミが化け物と称するワタシがこう言うんだ、キミは化け物以上だよ。異常と呼んだって、むしろ異形と呼んだって何ら差し支えない」
「そんなにこの場所が嫌いなら、早く消えた方がいいよ」
「そんな冷たいこと言わないでおくれよ。確かにワタシはこの場所が嫌いで嫌いで、今にも死にそうで死にたくて仕方がないが――それ以上に、キミには執着しているんだ。大層面白いからね」
「有史以来、最低最悪のプロポーズをどうもありがとう」
「お褒めにあずかり恐悦至極。この告白を、一生忘れないように祈っているよ」
地獄は今、ここにあった。自室というのは、安らぎの場所ではなかったか。
一体どうすれば、ここから逃れられる。どうすれば、瞳に映る黒い霧を見ずにすむ。
答えなんて、端から一つしかない。
「やけくそになって何を考えても、がむしゃらになって何をしようとも、ワタシが消えることはない。おすすめとしては、そうだね……さっさと寝ることだ。ぐうぐうと眠りこけて、楽しく朝日を迎えることだ」
「それはできない。考えることが、まだまだある」
「ああ、会長さんとやらのことか」
露骨に眉を顰めるロリ。恵まれた容貌のおかげで、化け物とは思えないほどに可愛らしく仕上がっている。
「もうキミも諦めているんじゃないのかい? ほら、あの、なんていったか……ふわふわ髪の憎たらしくて小さいガキが……」
「塩峰?」
「そう、その塩峰とやらと、随分と楽しそうに過ごしていたじゃないか」
「見てたのか」
「別にワタシは、顕現しなければ外界を観測できない訳じゃない。キミの自然な笑みを、不本意ながら見させてもらった」
「人の笑顔を嫌うなんて、最低だね」
「それは少し違う。キミがあの状況で笑っていることが、ワタシには不快だったに過ぎない」
むっとして否定する化け物は、好きなモノを否定されて、機嫌を損ねる幼女のように見えた。いやまあ、姿形は幼さ満点なので当然なのだけれど。
「やれやれ……ここまでくると、キミはあと三時間ほど妹の説教を受けた方が良さそうだな」
「…………」
言葉が一つたりとも出なかった。一文字の子音さえも発せなかった。
覚悟を決める時間を、もう一度。そんなことはもう必要ない。
「ひどい顔だ。そんなに嫌かい?」
「僕はあんな説教、二度と受けたくないよ。それに、二度と受けない。僕は愚かだけど、繰り返すことはしない」
「そんな言い方じゃ、あの妹さんの献身的な行為がまるで拷問みたいじゃないか」
違う、そういうことじゃない。この化け物はやはり、分かっていない。
「言ってしまえば、妹からのお小言だ。二時間という時間はハードであるが、その程度でしかない。ある程度きついとはいえ、キミが言うほど辛い訳がない」
分かったような顔をして、彼女はつらつらと言葉を並べる。
「分かるのさ。だって、ワタシはそういうモノだからね。心を読める化け物だからね」
僕の内心を侵して、幼女は憎たらしく微笑む。
「キミがそこまで嫌うのは肉親からの説教ではなく――その内容だ。自らの醜さと欠点をありありと見せられ、明確に指摘される――その残酷さだ。そして指摘を受けようとも、短所を直そうと動くことはおろか、考えることすらもできない――愚かな自分自身だ」
いきなり何を言っているのか、まったく噛み合わない。
よく考えずともこれは当然のことで、僕は人間で――彼女は怪物だから。
「よくないな、キミの語りは時折嘘くさくなる。いや、何時だって何処だって誰とだって何であっても――嘘に覆われているか」
黒煙の濃度がどんどん増していく中、僕は彼女を睨み続ける。もはや視認不可能なほど霧が深くなろうとも、一点をただただ凝視する。視線の先には、絶対に彼女がいるという確信があった。とうとう僕の視界は黒に満たされて、何も見えなくなる。
唯一感じ取れるのは、柊羽魔が吐き出す声だけ。
「おお、目つきがこわいこわい。そんなことでは、キミの大事な人は救えないよ。いつかどこかの――ワタシのようにね」
化け物の声は、もう怖くなかった。
怖いのは、死ぬことだけ。この状況を、解決することだけ。
妹の――肉親の前で腹を決めたはずが、鈍る。
あれだけ恐れていた怪物とのやり取りが、今は不思議と救いだった。
死ぬ前日の眠りは、誰かに見守っていてほしかったから。
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