第22話 先輩とコウハイの静かな戦い

「まさかまさか、ガラガラで有名な屋上にいるなんてねぇ……おねーさん探し疲れちゃったよー。疲れすぎてどこか遠くに、ゆったり旅行でもしたい気分」


 平和極まりないはずの昼休みが、間延びした声でこじ開けられる感覚。

 辺り一帯に響いた気だるげな言葉は、不協和音にも似ていた。嘘みたいに快晴な空の下、しかもこんなに開けた屋上で、たかが一人の声が響き渡るはずもないのに。

 不快感の理由は単純。こんな風に耳に音が纏わりつくのは、僕の頭の中で反響しているからだ。ぐわんぐわんと揺れる音に、視界までもぐらついてしまいそう。


「会長さんは、どうしてここに……?」


 いつも落ち着いている声のトーンをさらに一つ落として、塩峰は問いかける。


「ただ、どこかに行きたいって気持ちに従ってたら、屋上に辿り着いただけだよ――ほんとに偶然――たまたま知り合いに遭遇しちゃうことって、あるよねー。塩峰さんなら、よく分かってくれると思うけど」

「…………」


 対する後輩は声を出さない。急に強まってきた風にふわふわの髪を遊ばせて、対面の人物をじっと見ている。

 対照的に瞳をぎゅるりと動かして、会長は僕を視線で絡めとる。蠱惑的に輝く黒目の先は、事他芽汰の顔よりも少し下――手元に、そして両の手が持つ弁当箱に、視線を注いでいた。


 大層恨めしそうで、羨望混じりの瞳。もちろん、数時間前の廊下で見せた焦燥も眼差しに混ぜ込まれている。

 もしも視線が生糸になったら、僕の両手はぐるぐるに縛られた上に余った糸がそこらを埋め尽くすだろう。

 僕は瞳に縫い留められて動けず、塩峰は動こうとしない。


「ふーん、へぇ~」


 石像と化した僕らを眺めながら、会長はオーバーに首肯した。その絵面はこの状況においてもコミカルで、壊れたおもちゃの人形みたいだった。

「もうすぐお昼休みも終わっちゃうけど、お昼一緒してもいいかな?」


 僕らが何らかのアクションを取る前に、会長は僕の隣に腰を下ろした。

 それはとても乱暴で、びっくりしなかった塩峰と自分を褒めたいくらいの振る舞いで。

 まるで自らの体を、邪魔な荷物として扱うかのよう。


「あはは、ドジっちゃったぁ」


 そうこぼす彼女の声は、嘘みたいに嘘くさい。


「会長さん、その荷物……」


 下手な演技には触れずに、塩峰はそっと疑問を紡ぐ。

 はっとして先輩の傍らを見れば、可愛らしい青の袋に包まれた小荷物があった。

 その大きさは、僕が手に抱えてる箱を丁度二つ分重ねたぐらい。


 会長は自身の持ち物には目もくれず、ポケットからマフィンを出してぱくつき始めた。

 パンドラの箱に触れるか触れないべきか迷っているうちに、切り出すのはあちらだ。


「なんか歩き回っているうちに、食欲なくなっちゃってねぇ……。せっかくお弁当作ったんだけど、結局購買の残り物に落ち着いちゃったんだよねぇ。どうしてだと思う?」


 吊り上がった口角から途切れ途切れに笑みを漏れさせて、


「あー、甘くておいしぃ……」


 なんて恍惚に浸る姉村先輩。

 甘味かなにかに蕩けているその表情は、危険だと分かっていながらも魅力的。むしろ危うさを漂わせているからこそ、こんなにも惹かれるのかもしれない。


「結構動いたからかなぁ、なんか熱ぃ……」


 シャツのボタンが寸分の躊躇もなく、ぱちぱちと外される。思い切りのいいその手つきには、男子高校生ならば誰もが注意を注ぐに違いない。例外はなく。


「ふふ、めーくん、そんなに見て、どうしたのぉ?」


 甘い香りを漂わせるマフィンをポロポロと食べこぼしながら、目を細めてこちらを射抜いてくる会長。

 決して綺麗とは形容できない、濁った感情で満ちた瞳。その二つの球体が、僕の意識を捕まえて離さない。

 目を離した隙に曇り切ってしまいそうで、集中を切らすことができ――


「いたっ!」


 右太ももに走る強烈な痛み。本能が命じるままに痛みの始点を見れば、腿の内側を細い指が挟んでいた。しかも爪で、ぐりぐりと。そういう趣味があっても喜べない痛さだ。


「センパイ、頭、醒めました? まだ寝ぼけているなら、お代わりもありますけど」


 首の角度を恐る恐る上向きにすると、そこには全力の笑顔があった。

 塩峰空留史上、最高傑作間違いなしの張り付けた笑顔があった。


「跡は外から見えないように、ちゃんと内側にしておきました。わたしは気遣いができるコウハイさんらしいので、当然ですね。センパイ、何か言うことがありますね?」

「ありがとう、ございます……?」

「ばっちりですね。それを毎晩述べてくれれば最高です。わたしの寝つきがよくなります」


 何故、僕は感謝の意を述べさせられているのだろうか。

 一連の流れは、自分のことながら謎極まりない。かろうじて分かるのは、今のやり取りで緩んでいた意識がクリアになったことくらい。


「ん、どうしたのぉ?」

「いえ、少しばかりセンパイが嫌な目を――いやらしい目をしていましたので、注意しただけです。それだけですから、お気になさらないでください。いや、会長さんには気を付けてもらった方がいいですか……」

「わたしは一体、何に気を付けた方がいいのかなぁ?」

「このやらしー人の目に、ですよ」


 塩峰は僕のことを指さしながら、その指で頬を小突きに来る。

 長い爪のせいか、軽めのモーションに反して割と痛い。針で刺すような痛みが、触覚どころか心まで伝わってくる。


「そういった隙の多い振る舞いは、あまりおすすめできません。色々とアレなセンパイが、とっても良くない表情をしてしまうので」

「そんなこと言う割には、塩峰さんの『注意』の仕方も過激だと思うのだけどぉ」


 反撃を食らった塩峰は顔を赤らめて、


「わたしがしているのはそういった話ではないのです! 大体この注意は腑抜けたセンパイの意識を戻すための最小限の痛みを与える合理的な行為であってまったくぜんぜんこれっぽっちも不埒な意味合いはなくて――」

「よく息続くねぇ、若いってすごいなぁ」

「会長さんとわたしは、ふたつしか年が離れていないはずですが」

「二つしか、ねぇ……こっちからしてみれば、その二つがすっごく遠いんだなぁ」


 屋上の柵越しに見える、校庭よりもずっと先。会長の視線は、遥か遠方を見詰めたまま動かない。


「遠くて手を伸ばし続けても、やっぱり届かないんだよねぇ。ようやく捕まえたと思ったら、するりと指の間をすり抜けてしまって――いつのまにか他の誰かの手の中で、悔しいよ。気持ちよくなるくらい、悔しい」


 ゆるゆると青空に向かって伸びる、会長の片手。

 力ない腕はそのまま僕の方にスライドして――


「物理的には、こんなにも近いのにね。ほぉら、簡単に触れる」


 そよ風に吹かれたような感触が、僕の頤を撫でた。

 にへら、と年齢にそぐわないあどけない笑み。

 弱弱しさを凝縮した姉村癒の微笑は、破壊力抜群としか表しようがない。


 憂いを帯びた瞳が、僕の意識を吸い込み続けている。捕らわれていると気づいた時には、自力では脱出不可能で――。

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