第19話 おねーさんの重めな告白
「めーくん、今ひまー?」
その声は、ルール違反の宣戦布告だった。
休み時間で最高潮に達するクラスの喧騒。
それがいとも簡単に切り裂かれて、ドアからするりと静寂が入り込む。
姉崎癒が教室の中に一歩を踏み出すと、モーセよろしくクラスメイトの波が割れた。
普段とはまったく異なる様子の生徒会長に驚いたのか、皆は一言も発さない。
ただ口を閉じて、一つ上の先輩と彼女の歩む先を見ていた。教室にできた空白の先――普段ならば意識もしないような席に、集中していく視線。
「どうしたんですか、いきなり。何か用事ですか?」
「用事がなくちゃ、来ちゃいけないかなぁ?」
「別にそんなことはありませんけど……あまりにも唐突だったので……」
やりづらいことこの上ない。僕と会長が一言発すだけで、皆の表情が動いている。視界のあちこちで起こっている反応が気になって、意識が散逸していく。
「思い付きで来ただけだよぉ。次の時間、この辺で授業だからねぇ」
「移動教室なんですか?」
「そーそー。そだよー」
返答に合わせて、大きくて形のいい瞳が動く。先輩の言葉からは嘘の香りが漂っていた。
「ちなみに、次の教科は?」
「んー、理科だねぇ」
ざっくりした答えだった。
化学か物理か生物か――高校生だったら普通、そのように答えるものだ。
文系選択の三年にしたって、杜撰かつ極めて怪しい。
「で、本題は何ですか?」
「だからぁ、そんなものないっ――」
「な・ん・で・す・か?」
「う、うぅ……厳しいよぉ。こわいよぉ」
しょぼくれた顔をして、気まずそうに僕を見つめる先輩。いたずらが露見した犬のような素振りは、嘘を吐いていると分かっても責めにくい。責めるのが楽しいからこそ躊躇われる。
しかもその姿は姉村癒というカタチとマッチして、ひどく様になっている。ありきたりに言えば、同情心と注目を大いに引く光景だ。あらぬ想像を喚起しかねない振る舞いを、彼女は見せつけるように続けている。
まずい、と思った時には遅かった。
「事他くんと会長って、どういう関係なんだろ」「ねー、気になる」「会長って、あんな感じなんだっけ?」「違ったと、思うけど……」
静けさに満ちた教室で、一瞬ざわめきが生起する。向けられる視線の密度が爆発的に増していき、黒いものが僕の心に積もっていく。
――どうしたら、ここから上手に抜け出せるんだろう。
――いや、上手くなくてもいいのか。無傷でなくても、いい。
この視線の檻から、抜けられれば。
「続きは、廊下で」
「えっ、わっ⁉」
僕は会長の細くて白い手首をつかみ取った。
キャッと。観衆の中から、吃驚と興奮の入り混じった声が飛び出る。
関係ない。無視してただ体を動かす。足を踏み出して、腕に力を入れて、前を見る。
左後ろから聞こえてくる、笑みの溢れも気にしない。
感覚と心を殺すこと数秒で、僕はいつのまにか自習室前の廊下に立っていた。
微塵も人気のない、寂れたと形容してもまるで問題のない場所。口を封じるプレッシャーと化した静謐の中、恐る恐る口を開く女性が一人。
「ねぇ、めーくん。ここまでくる必要、あった?」
「人の目が、嫌だったので」
「そんなに?」
「そんなに、です」
目立つ先輩が自分のクラスに訪ねてくるときの、下級生の気持ち。その複雑な心境を、上級生は理解できない。
誰もが自分のことばかりで、他者の立場をシミュレートしている余裕はない。
そんなことはとうに知っていて、とっくの昔に分かっていて、だけど。
色々なことが有りすぎた。しょぼくて些細な衝撃で、心の堰が一気に決壊し始める。
「あの――」
迷惑です、と言おうとした。
時間と場所を考えてください、なんて、吐き捨てようとした。
でも、そんな簡単なこともできやしない。
顔を上げて、正面切って言葉を紡ごうとして――僕は静止する。
ここまで真剣で、泣きだしそうな先輩の顔を、見たこと、なくて。
焦りと誠実さと、そして何よりも必死さで――ぐしゃぐしゃになった表情。初見の僕には、停止する以外にできることがなくて。
「嫌な思いさせたのなら、ごめんっ! でも――
猫も獅子も、被り物が捨てられた。
仮面そのもが投げ捨てられリノリウムの床に落下する、そんな幻聴が聞こえた。
僕に叩きつけられた途切れ途切れの言の葉は、それはもう強烈で鮮烈で。
今までで一番、姉村癒の地を感じさせられる声だった。
肺の空気を言葉と共に吐きだし切った少女。荒い吐息がしんとした空間の中で響いて、僕の耳まで彼女の熱が伝わってくる。
「今朝、思ったの。もっと踏み出さないと、変わらないって」
言葉通りにしなやかな体が動いて、僕と会長との距離が縮まる。
「妹ちゃんにも、後輩さんにも、やっぱり、負けたくはないって。渡したくはないって」
また一歩、確かに踏み込んだ音がする。きゅっと鳴る摩擦音は、上履きで踏みしめられた床の悲鳴だ。
僕の足は一歩分後退しようとして、壁にぶつかった。
行き止まりだ。もうこれ以上――下がることはできない。
「皆で気を遣って、仲良く距離を保って、でもそれじゃ――わたしは満足できないの」
姉村癒はじりじりと迫り来て、とうとう僕と彼女との距離はゼロになる。あまりにも高い熱が衣服越しに伝播して、体と体が融けあってしまいそう。
「はっきり、させたいの。ねぇ、分かるでしょ?」
吐息がかかる距離で目をそらし、呼吸音さえ聞き取れる近さで僕は聞こえないふり。
そんな人間を、先輩の瞳はどんなふうに捉えているのだろう。
今すぐ数センチ先の両目をのぞき込めば、すぐに確認できる。しかし僅かに眼球を動かすことさえも、今は困難が伴う。
「このままが嫌なの。今が――嫌で嫌でしょうがないの」
聞き覚えのある言葉。反射で耳を塞ごうとするも、僕の両腕は会長の柔らかな両手に抑え込まれる。
「キミは本当にこのままがいいの? めーくんは、この状況を本当に望んでいるの?」
いつかどこかで、何度も幾度も言われた台詞。脳内で声の反響が止まず、繰り返すたびに増幅される音が僕の心を苛んでいる。
止めて、やめてくれ、やめてほしい、おねがいだから。
きっと、この顔は苦痛に歪んでいることだろう。トラウマによって引き出された反応が、相手の更なる狂気を喚起するとは知らずに。
「わたしは今の関係がいやなの。不安で不安で仕方ないの。だからね、ほらこれ――」
少女のポケットから取り出されたのは、四つ折りの紙。くしゃりと広がった紙上にはいくつもの欄があり、ほとんどの印や記入が済んでいて――上部には『養子縁組届』の文字が――
「不安で寂しくて心細くて、考えたら思いついたんだ。そうだ、めーくんがわたしの家族だったらいいんだと思って、書いてきちゃった。思いついたときは安心して、ホッとして、ようやく夜も眠れるようになって。あっ、『おねーちゃん』って呼んでもいいからね。役所はきっと受け付けるの遅いだろうし、あ、『ねーさん』のほうがよかった? なんでもいいよ。いやでも『ねーね』とかは嫌かな。『姉ちゃん』もダメ。やっぱり丁寧じゃないとかわいくないし。『姉』とかもう論外だよね。もちろんそう呼ぶめーくんもかわいーだろーけど、やっぱり――」
見えなかった振りをしよう。
聞こえなかったように装ってしまおう。
心の中に黒い靄が湧き出して、奥底にどす黒い澱が沈殿していく。ぎゅっと閉じた瞼の裏で視覚化される『それ』は、屋上で目にした黒霧に酷似していた。
「ねぇ――」
りーん、ごーん。
――凛とした声が、チャイムの音に遮られる。
普段は忌み嫌っているはずの、授業開始を告げる鐘の音。音質の悪いコピーである電子音に、これほどまでに救われる日が来るとは。
今この時に繰り返される音は、僕にとって紛れもない福音だ。
すっと、会長の体が僕から離れていく。
一歩二歩三歩と下がって、くるりと回れ右。首だけ回して後ろを振り返り――僕のほうを振り返って、姉村癒は言った。
「わたしはどうすればいいのかな、めーくん」
そのまま去っていく彼女の後ろ姿を、ただただ茫然と眺めている僕。
この両の目が見つめていたのは小さくなっていく背中か、それとも辺りに漂う黒霧か。
事他芽汰自身にさえも、てんで見当がつかなかった。
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