第15話 元幼馴染で今は妹

 妹キャラは、実際に妹を持つ者からするとファンタジーの住人だと聞いたことがある。可愛らしい彼女らはあくまで幻想であるのだと、兄である者たちは強く主張する。

 兄という生き物になると、妹もの作品を娯楽として楽しむことも不可能らしい。妹という言葉を見るだけでリアルの妹がちらついて、直視だって困難なのだとか。

 その難儀な感覚が一帯どういったものなのか、一人っ子であった僕はいまいち想像すら出来なかった。けれど、今は違う。


 事他芽汰は兄である。

 そして、事他芽兎は妹である。

 『おにーちゃん』と呼ばれるようになってからは、兄特有の複雑な気持ちとやらが理解できるようになっていた。


 妹はまずかわいい。でもやっぱウザい。だが大切な家族で邪険にもできない。

 妹がそもそもめんどいのに、それに伴う感情もめんどい。

 そして追い打ちをかけるように、芽兎が妹キャラのように振る舞うからますます混乱する。これで実妹でなく義妹だったりしたら、僕はこの世界を夢と断じるだろう。断じたいだけかもしれないが。


 閑話休題。

 現実逃避代わりの愚考は、止めなくちゃいけない。

 足を我が家の方向に進めれば、いくら歩幅が小さくとも、どれだけ歩調が遅くとも、いずれは見知った玄関に到着してしまうのだから。

 僕は一番安らげるはずだった建物の前で、ひたすら硬直していた。


 ドアに手を触れた時に、静電気が十回ほど連続で起こってほしいと願った。

 そうすれば十秒は時が稼げる――なんて、馬鹿みたいなことを考えてしまうくらいには会いたくない。会えば、思い出してしまう。

 逡巡して伸ばした手が再度固まる。ここで僕は扉を開けるべきだった。迷うべきではなかった。ドアは外側から開けなくとも内から開くことに、気付くべきだった。

 ガチャリと、音がする。


「まったくもぉ! 遅いよ! 遅すぎるよ! 健気にご飯を作って帰りを待ってる妹を、『おにーたん』が待たせちゃダメだよー」


 おにーたん? 一旦置いておく。

 六年も早く生まれたんだから――と、付け足された台詞は妹のテンプレからは外れていて、まるで母が言うような言葉。エプロン姿も相まってお母さん感は強い。というか、その格好のままずっと玄関で待っててくれたのか。


 一見つんとした態度だけれど、妹は優しさに溢れている。

 さっき塩峰に優しいと評されたけれど、妹のそれは僕の比ではないのだ。

 悪意が微塵も無い。全ては誰かのために。全てが誰かのように。


「もぉ、はやく中入ってね! 風邪ひいちゃうよ! あとおかえりなさいのハグ!」


 こうやって有無も言わせずぎゅうっとされては喋れない。というか、人って暖かい…………悔しいことに、安心してしまう……。


「おにーたんも、ちょっとなにか言ってよ……やっぱめーちゃんのこときらい? この喋り方しちゃだめ? 『ガチ幼めファンタジー妹』はダメだった?」


 逃げられない、色んな意味で。

 言い訳でもとりとめのない考えでも、この現実から逃げることはできない。妹は逃がしてくれない。無言の兄に、肉親は容赦なく畳み掛けてきた。であれば、答えなくちゃいけない。 


「ダメって、わけじゃないけど……」

「好きでもないんだよね? なら、おにーちゃんの好みを教えてほしいな。芽兎にはさ、なんにも分からないから。察するの苦手だから、教えてほしい」


 ため息と共に打ち明けられた悩みで、僕の記憶が蘇る。妹は周囲に合わせて振舞うのが苦手で、小学校に入るとクラスに馴染めず苦労して、それを解決するために僕は芽兎とたくさん遊ぶようになって、それから――。

 密着の度合いが高くなる。二人の距離が消えていく。伝わる体温に溶かされて、言葉も記憶もあやふやになっていく。


「いいよ、そのままで。芽兎のなりたいように、やりたいようにで」

「本当? 今の芽兎が好き?」

「すきだよ。大切な家族だ」

「たいせつな、かぞく――うん、わかった。……ありがと、おにーちゃん」


 芽兎はゆっくり僕から離れると、


「朝も今も変な話して、ごめんね。お詫びに今日は、おにーちゃんのおもてなしをたくさんします! さ、こちらにどうぞ!」 


 そのまま手を引かれ、あれよあれよと妹様にされるがまま。

 こうして僕の手を引っ張る力は優しく、靴を脱いだらすぐに揃えられ、カバンはいつのまにか預けたことになっていて、制服は瞬時に脱がせられて部屋着になっていた。

 神業だ。妹がとっても危うい技術を習得しているみたいで、兄は心配。


「手洗ってきて! そしたらごはん! お風呂も沸かしてあるけど、あとでいいよね⁉」


 押しが強い。語尾に全て感嘆符が付いているみたいに。

 背中を押され、言われるがままに手を洗うと、ダイニングテーブルに座らされる。

 僕は介護されているのだろうか? 


 このままでは、給仕を逸脱したことまでされてしまいそうだ。六つも年の離れた妹に『はいあーんまで』されたら、兄として終わってしまう。というより人間の終わりだ。


「どうしたのおにーちゃん、はやく食べよ。それとも、何か嫌いな物でもあった? 新しく増えちゃった? だったら、こっちのお皿に移していいよ」

「いや、そんなことはないよ。どれも美味しそうだ」


 春らしさを感じさせる炊き込みご飯に、きれいに焼き目がついた鮭の西京焼き。食卓に彩りを加えるのは瑞々しいほうれんそうのお浸しで、味噌汁の香りが空腹感を煽る。

 料理を口に運ぶと、予想通りの美味しさだった。しかも食べたことのある、安心感に溢れた味だ。


「朝はおもいっきり洋風だったから、夜は和にしてみたの!」


 どうやら芽兎は僕のリクエストに答えてくれたらしい。出来過ぎた妹だ。


「レパートリー、どんどん増えてない?」

「甘いよ、おにーちゃん。芽兎の手札はこんなものじゃないの。今朝はイギリス風だったけど、フレンチイタリアン中華も練習中」

「すごいなぁ、芽兎は」

「えへ、もっと褒めて?」


 兄として誇らしい。この子に欠点があるとすれば、短所が欠けていることぐらいか。

 ――ああ、完全な兄バカだ。

 今までの自己が崩されている。でもこの自分も、事他芽汰であることは変わらない。

 幼馴染と過ごした自分もいて、妹を見守ってきた僕も確かにいるのだ。

 どちらが偽物というわけでなく、双方本物だからとにかく性質が悪い。


「おにーちゃん、ところで最近はどう?」

「変わらないよ」


 箸を進めつつ、虚偽で表情を塗り固める。芽兎には一番真実を伝えられない。


「彼女とか出来た?」

「いないよ」

「あのふわふわした髪の子は?」

「塩峰はそういうのじゃない」

「かいちょーさんとはどうなの?」

「良い先輩だよ」

「へー。うそっぽいけど。おにーちゃん、嘘つきだから」


 じとーっとした擬音が見えそうな目つき。不満を隠そうともせずに、芽兎の分の西京焼きが箸でぐしゃりと裂かれた。


「おにーちゃんが誰と付き合おうと勝手だけど、自己責任だけど、しょーらい彼女さんと関わるかもしれない妹として一言、いい?」

「どうぞ」

「あのおねーさんはやめて。芽兎の分が無くなっちゃう。それに羨ま――ずるいし」


 何が、無くなるのだろう。


「猫みたいな子ならいいよ。いろいろ分けてくれそうだし。直接話したことはあんまりないけど、なんかそんな感じがする。目が合ったことなら、たくさんあるし」


 塩峰とも、何があったのだろう。何があったことになっているのだろう。そもそも、妹と後輩はどこで会っていたのだろう?


「おにーちゃんは思い出したくもないだろうけど、芽兎はね、昔みたいなトラブルは絶対嫌だから」

「昔? トラブル?」

「まさか、忘れたの? って言いたいけど、仕方ないかも。五年前だし。でも、五歳だった芽兎が覚えてるんだから、おにーちゃんにも忘れないでほしかったな」


 五年前。僕が十一歳の時、小学五年生の頃。


「何が、あったっけ?」

「おにーちゃんに新しく出来た友達が、ジェラシーの神様みたいな性格で――あの時は大変だったなぁ」


 まだ齢十にも関わらず、妹は過去に想いを馳せた。妙に様になっているのがまた、妹と言うより母親っぽさを醸し出している。そしてなにより、何故か安心できる。

 これも、バブみか。

 会長のとはまた違っている。これでは、我が妹が姉村先輩と相性が悪いのも頷けた。

 与えるためだけの母性を芯まで宿した芽兎と、素顔のまま甘えることで人との関わりを得ている会長では、さもありなん。


「と・に・か・く、芽兎はあの時みたいになりたくないよ! おにーちゃんがどこかのうまのほね? に縛られちゃうのはヤなの! だから、付き合う相手は良く選んでね! 友達もそうだからね!」

「わかったわかった」

「ならよし。聞き分けのよいおにーちゃんをもてて、妹は幸せだよ」


 ほんとうに幸福そうな彼女を見ていると、些細な疑問が浮かんでくる。


「ところで質問なんだけど、その嫉妬深い子はどうしたの? 喧嘩別れで絶交とか?」

「えっと――確か――あれ、どうなったんだっけ?」

「名前とかは――」

「んと、ちょっと待って――」


 妹は両手でこめかみを押さえて、必死に考え抜く。そして、結論を出した。


「ごめん、分かんない。とってもイヤな子だったから――忘れちゃった」

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