第14話 後輩と怪しい通学路

 塩峰空瑠と姉村癒には、継ぎ接ぎの不完全な思い出しかない。


 記憶は消えている。あの黒い、どす黒い怪物に呑まれたがために、現実から拭い去られてしまっている。

 涙は出なかった。悲しい感情はもう意図的に、生徒会室で吐き出しきったから。また瞳を潤ませていては、会長に見せる顔が無い。

 あの人は僕がまた決壊したとしても、笑って受け止めてくれる。確定と言っていい。そしてそれに頼るようではダメだ。

 コウハイの言動も、素直に受け止めなくちゃ。彼女だって『消費』の例外ではないのだ。


「ああ、ありました――センパイの妹さんが、センパイを頑張って起こした件が。妹好き疑惑事件がありました。こんな大事件、何故思い出すのに時間がかかったのでしょうか?」

「っ――あった、ね」


 湧き出した感情を堰き止められたのは、覚悟というダムのおかげだった。

 幼馴染が消えるのは、記憶ごと、出来事までも吹き飛ぶのは、辛い。辛すぎる。もう一度泣き出したいくらいに。


 でも彼女が別の誰かに置き換えられるのは、それすら優に凌駕する。

 精神のキャパシティを軽く超えて、心という容器そのものを圧力でぶち壊しにくる。


「――っ⁉ センパイどうしましたか顔色がすごく悪いですよわたしに出来ることはないですか頭痛薬と胃薬と目薬と点鼻薬と消毒液と絆創膏があるのですが」

「そんなに、焦らなくて、大丈夫。少し、ほんの少し、ふらついただけだから」 


 セカイがぐるりと回る感覚。

 世界がぐにゃりと歪む錯覚。

 頭を横に振って、嫌なイメージと共に不快感を振り払う。


「今日は早くお家に帰りましょう、センパイ。わたし、心配です……」

「別にだいじょう――」

「だめです」


 気がかりをたっぷりと含んだ彼女の視線は、たかが体調不良程度に向けるには少々重すぎると感じた。それ以上を憂慮する双眸には、逆らえない。


「帰りましょう。一緒に、帰りましょう」

「……分かった、そうする」


 返答に安堵したのか、塩峰空瑠はゆっくりと息をつく。


「わたしがいる限り、センパイに無茶はさせません。センパイだって、センパイ自身を犠牲にさせはしません」


 そう言い切る彼女の方こそ、僕にはどうしてか無茶をしているように見えた。


「そういえば、妹さんに遅くなると連絡をしたのですか?」


 暗い暗い帰り道に出ると、小悪魔は鋭い質問で僕を暗鬱に落とし込もうとする。

 本人にはまったくもって、そのような悪意がないことは百も承知だ。理解はできても、受け入れがたいというだけで。

 あと数分で八時を告げようとしているスマホを見つめて、出来るコウハイは無意識の追い打ちをかける。


「もう遅い時間ですから、夕ご飯もきっちりばっちり準備されていることでしょう。芽兎さんはいつもいつも丁寧に夕ご飯を準備していらっしゃいますからね、時たまご両親が忙しくてお家に帰れない時にも、お一人でばっちり家事をこなしているのは、とってもすごいことです。ところでですね、わたしもそういった事情を加味してですね、ぜひお手伝いに――」


 彼女の言う「いつも」が分からない。が、そんな未知は一瞬で過ぎ去る。「知らない」と認識した直後には、脳に記憶が差し込まれているから。

 両親が仕事で不在であったときに、いつも家事をしてくれていたのは――幼馴染だっただろうか、それとも妹だっただろうか?


 記憶がごちゃまぜになって撹拌され、徐々に薄まっていく。忘れ去ることへの恐怖すら忘れ去り、どこか遠い場所への感傷と成り果てた。

 この希薄な感情すら、いつまで維持できるのか。

 激情ですら簡単に和らげてしまう世界の仕組みに、どうしたら抗えるのか。


「――パイ、セ・ン・パ・イ」

「うわっ!」


 後輩が間近に。吐息が頬で感じ取れる距離に驚き、のけ反る――ことはなかった。

 背に塩峰の細い腕が回されて、後方への重心移動さえも妨害される。


「まったく、全然、これっぽっちも、わたしの話を聞いていませんでしたね」

「ごめん。つい、ぼーっとしちゃって」

「やはり早く帰った方が良いと思います。わたしを家まで送り届けなどせずに、さっさとご自宅の方向に向かうべきです」

「でも、こんな時間だし」

「わたしの家の周辺は明るいですから、お気になさらず。ほら街灯だってこんなに――」


 言うやいなや、目の前の街灯がばちりと切れた。無機質な光がぱっと消え失せて、周囲には闇が伸びてくる。大した偶然だ。運があるのかないのか。


「こうして送るのは僕のやりたいことだから、やらせてよ」

「そう、ですか。ほんと、ですか?」

「ほんとほんと」

「どれぐらいやりたいですか。どうしてやりたいんですか」

「すっごくやりたいよ。家に帰りたくないくらい」


 これは正直な気持ちだった。帰りたくない。帰れば、また向き合うことになるから。


「マジですかでは今からお母さんに連絡して一人宿泊することを伝えますからいえ急には無理でしょとは言わせません脅迫してでもセンパイの宿泊を認めさせて――」

「ストップストップ! そのスマホをしまって‼」


 ああ、そうして塩峰の家に泊まれたらどれほど楽なことか。

 妹に――事他芽兎に、会わずに済むならそうしたい。でも、それではダメだ。


「そうですか、残念です」


 本物の落胆に視線を落として、塩峰は呟いた。


「でも、センパイには待っている家族がいますから、当然ですか」


 焦ったわたしが愚かでしたと、付け加えながら。


「ですがいずれ、センパイには来てほしいです。わたしの家に、わたしの部屋に」


 もうすぐ、塩峰の家が見えてくる。人気なんてまるでない交差点で、スポットライトのように投じられた灯りの中で、コウハイはゆっくりと振り返る。


「ぜひ、妹さんとご一緒に訪れてください。そのためにも、何があったのかわたしには分かりませんが――仲直り、してくださいね?」


 僕の記録を大量に所有する彼女には、何もかもがお見通しで。

 何があっても――敵わないと思い知る。

 今までも、これからも。

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