第8話 告白した幼馴染が妹になる
それから、幼馴染が『消費』されていく。
「――へ?」
不快感を覚えるほど澄み切った青空の下、青春の象徴とも見做せる校舎の屋上で。
目と鼻の先で、あと一歩踏み出せば届く距離で。
その光景は夢のようで、悪夢のようで。
なぜかわからないけれど、刻一刻と変化する現実に僕は身動きが取れなかった。
――確かに僕は、代わり映えのない世界が変わればいいと思っていた。
――何もしていないくせに、退屈な周囲が変化すればいいのにと願っていた。
――覚悟もないのに、なんとなく死にたいとさえ祈っていた。
そんなことを願ったからだろうか?
報いが、今目の前にある。
手を二つ備えたバランスボール大の黒い球体が、半球になってしまいそうなほどにぱっくりと割れて――大きく口を開いて、彼女の右腕を飲み込もうとしている。
「つんで!」
僕は幼馴染の名前を呼び、手を伸ばす。震えた掌を開いて、ちっぽけな指先を届かせようとする。
その直後、怪物の口は閉じられた。
悲鳴はない。声を出せるほど、まともな光景ではないから。
喰いちぎられた少女の腕からは、赤い液体が溢れ出ることはない。肩口の断面は画像をトリミングしたように整っていて、一切の綻びも認められなかった。腕を欠いているのに――完璧だった。
再び、丸い怪物の口が開く。
次に呑まれるのは上半身だということを、僕も彼女も自然と理解していた。
故に少女は、消えてしまう前に口を開く。
同時に残された片腕をこちらへ伸ばし、五指をぴんと張った。
僕に触れることを怖がった彼女が、僕に触れようとした。
最後の最後に、言葉を添えて。
「あたしは、触れないほど芽汰が大好きだったのに――ダメ、なんだね」
数秒後に、怪物は再度口を閉じた。手を伸ばせば届く距離なのに、僕らは触れ合えずに終わった。間に合わなかった。
上半身どころか全身までも飲み込んで、黒い塊はゆらゆらと浮遊する。
残されたモノは、僕と球体だけ。
あれだけ僕の前を彷徨っていた、彼女の小さな手は欠片も残っていなかった。
僕の周囲を騒がしく彩ってきた、華やかな声はもう響かないだろう。
数秒前には軽やかに踊っていた、赤みがかった茶髪のツインテールは、もはや一房たりとも落ちてない。
十秒にも満たない間に起こった、完全なる消失。
――なんだ、これ。
「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ‼」
叫ぶ。
僕はひたすら叫び、黒々とした球体に飛び掛かる。
「返せ! 返せよ! 僕の幼馴染を、返せ!」
円球につかみかかろうとしても、両手はすり抜けるばかり。全く感触はなく、つんでの温度は除去されていた。
訳が分からない。
人が消えた。人間が、少女が、幼馴染の
全身も心も痛くなるほどの大音声を出し切って――なにも起こらない。
異形と異変に足を縫い止められて動けない僕をよそに、怪物は黒煙と化して空に散り始めている。
濃く厚く、そして重たい煙が広がり、密度が薄くなるにつれて影が何等か形を現す。
時間の経過に伴って、ぼんやりとしたシルエットは明白な輪郭を持ち始めた。
「ひ……と……?」
僕の疑問に答えるかのように風が吹いた。
煙が晴れる。
視界が開けて――出現するのは、ツインテールの小さな女の子。
なぜか、シルエットを見るだけで容姿が把握できてしまう。いや、きっと見なくても僕はこの子のことを知っている。
だって僕は、彼女のことを生まれた時から知っているのだから。
くりんとした大きな瞳は少し吊り上がっているけれど、幼さを示す丸みを帯びた輪郭が、印象を調和させていた。自然な朱で彩られた頬は、より若さを感じさせる。
すらりとした手足がふらふらと動いて、影を揺らす。落ち着きのなさですらもまた愛らしいのだと、僕は家族に向けるような感情を抱いた。
――家族?
この子は誰だ――僕の家族だ。
答えがどこからともなく降ってくる。心やら脳やらに書き込まれてく。
この子は、僕が知らない――否、今知った――いるはずの無い、妹。
消え去ったつんでにどこか似た、明るくあどけない自慢の家族。
「き、きみは、だれ?」
既知であるのに、問う。問わずにはいられない。せめてもの抵抗だ。
「やだなぁお兄ちゃん。
そう、家族だ。この子は僕の妹だ。思い出もある。良かったことも悪かったことも、喧嘩したことも仲直りしたことも、全部全部覚えている。
僅かたりとも忘れることなく――まるで今、頭の中に埋め込まれたみたいに。
「なんでここに……小学校はどうしたの? 高校は十歳の芽兎が来れる場所じゃ――」
どうして僕は、目の前の童女の年齢を正確に言い当てられたのだろう? ローティーンの歳を正確に見抜く観察眼などという、変態的な力を得たのだろうか?
そうであるなら、どれほど良かったことか。
ただ身内だから、こないだ開かれた十歳の誕生日会の記憶があるのだ。僕からのプレゼントに歓喜する、とっても愛らしい実妹の姿が脳裏に焼き付いているのだ。
「これは夢か、なんだ、一体、一体なんなんだ……⁉」
「お腹が空きすぎて、幻覚でも見てるの? ウチの学校、小中高いっしょだよ。ここが高校で、あっちが中学、その左が小学校。おにーちゃんも通ったじゃん!」
芽兎が指さす先を力なく目で追えば、ぴっかぴかの校舎がそこにそびえ立っていた。
僕の記憶にない建築物が、あった。
そして、今までの僕の思い出も瞬時に書き換えられていく。
ボロく、汚く、それでもなお暖かかったはずである、記憶の中の母校は――真新しく、汚れのないクラスルームに入れ替わっていた。
あれ、僕はあんなにぴかぴかで冷たい場所で学んでたんだっけ?
「……っ⁉」
「おにーちゃん、ほんとにどうしたの? 具合悪そうだよ。看病する? 早退する? 芽兎も学校早退してこよっか? 大丈夫、皆勤賞なんていらないよ! おにーちゃんのお世話は皆勤したいけど!」
僕の顔を覗きこむその顔が、脳内で幼馴染のそれと重なって離れない。
あまりのシンクロ具合に、気づきたくない、気づかされたくないことに――気づいてしまう。
あの行為が『消費』に思えたのは、その先に『生産』があるからだ。
人物の再生産。
人一人を費やして、人一人を再構成する行為。
あの化け物は、そういう代物。
――どんどん思考が沈み込んで、深みにまで落ちていく。睡眠時によく出会う、カタチの無い思考に呑まれていく。戻ってこれないのであれば、それでいいのに。
「――ちゃん、おにーちゃん!」
「ん、あぁ。ごめん、ほんとにごめん」
でも、戻ってきてしまう。帰ってきてしまう。
兄のことを心配して呼びかけるその声と、その音に目一杯詰め込まれた心配は、この世に二つたりとない本物であるが故に。
「だいじょうぶ? 芽兎は心配だよ」
「ああ、問題ないよ」
「ほんとに? ほんとにほんと?」
「大丈夫だから。愛妹弁当を欲しすぎて、ちょっとぼーっとしてただけ」
「それ、ただお腹が空いてただけじゃん! もう、朝ごはんたくさん食べとかなくちゃだめだよ! 芽兎がせっかく、毎朝たくさん用意してるんだからね!」
冗談に頬を膨らませつつも、声色を華やかにする芽兎。
先ほどまでの嫌な感覚が嘘のように、女の子の笑顔で拭い去られていく。
うん、これが日常だ。これが常識なんだ。
心を平静に保とうと、自分の中で声が反響している。だけど違和は拭えない。
「あと、お腹が空いてただけで『愛妹』なんて言葉使わないでよねっ! 朝ごはんやお弁当なんて、芽兎が自分の分作るついでだし! 今日届けに来たのも、おにーちゃんのを間違えて自分のカバンに入れちゃっただけだから! ほんっとうに、それだけだから! はいっ‼ わかった⁉」
僕の胸にめり込ませるようにお弁当をぐいぐいと押し付ける我が妹は、いきなりきょとんとした顔をした。僕の顔を見てから首を傾げたままフリーズし、口だけを動かした。
「やっぱりおにーちゃん、なんか変。もしかして……芽兎がなにかしちゃ――」
「そうやって喋るの、やめにしない? 前も言ったけどさ、幼い口調にする必要なんかないよ。本来、芽兎は僕なんかよりもよっぽど賢いんだから――」
この口は一体、何を言っているんだろう。
「前」とはいつだ。「本来」ってなんだ。僕はなんにも知らないんだ。
何度否定しても、不可思議な記憶が蘇ってくる。三日前の夜に交わした僕らの会話や、妹の聡明な振る舞いを想起してしまう。
記憶と意識の乖離に苦しむ人間を前にして、僕の妹はそっと呟いた。
「私は賢くなんかないよ、お兄ちゃん。頭が良かったら、好きな人に、お兄ちゃんにもっと私を好きになってもらえてるよ。でも、全然うまくいかないんだよ」
平坦なトーンで吐き出された言葉は静かに、だけど迅速に聞き手の心を侵していった。
「お兄ちゃんの部屋を漁って、妹モノの漫画とか本とか出てきたからって、それを参考に『幼め無防備で献身的な妹』を演じたりしないよ」
「え……え⁉」
静かな空気が吹き飛んだ。
どこだ。どこでバレた。ちゃんと過激なやつは本棚の奥に押し込んだはず――
「ふふ、なんてね! 変な話はここでおしまい! 芽兎はねぜんぶぜんぶ、お腹ぺこぺこが悪いと思う! だからちゃんと愛妹弁当食べて、おなぺこ状態から復帰すること!」
先の言葉が夢だったかのように、芽兎は声を張り上げた。夢であってほしかった。
加えて風呂敷に包まれた荷物を預けてくる。
プラスチックの弁当箱を無理に押し当てられた胸部が、ひどく痛んだ。
幼馴染との関わりでは使わなかった触覚が、今はちゃんと機能している。
「あっ、いつもの忘れてた! はい、お別れのハグ‼」
ぎゅうっ、と。
急に反転した芽兎がいきなり全力で抱き着いてきた。一時的に混乱するが――いつもしていることなのに、僕はどうして動転してしまうのか。
年齢の割に力が強く、抱き着かれる僕が痛みを感じるのも日常茶飯事。抱きしめることで交換されるお互いの体温が、緊張した心を融かしていくのも変わらない。
抱擁の終わりに離れていく温もりだって、何度も経験したことだ。
「じゃね、おにーちゃん‼ 今日も学校頑張ってね‼ あと、お弁当は落ち着いてゆっくり、味わって食べること‼」
視界から消えるまで、妹は僕への言葉を残し続けていた。
茫然として、床に座り込む。急速に膨張する家族愛が怒りと混乱をずたずたにしたあげく、立っている気力すらも奪っていった。
僕以外誰もいないこの屋上に、だらしなく崩れ落ちる。
するといつのまにか、黒い霧が三度この場を満たしていた。
身構える気もない。
この数分が、夢であればいいと思った。
夢でないならば、僕もあんな風に『消費』されてしまえばいいと望んでいた。
色づいた空気が集まって、透明な人型に嵌まっていく。
霧に形成されて目の前へと舞い降りるのは、またしても女の子だ。
年齢は、芽兎よりも二つ三つ下……だろうか?
幼女は闇のように深い黒髪をそよ風に遊ばせながら、足先を床に触れさせた。そのまま一切音を伴わずに、着地。気味が悪いくらいに乱れのないボブカットが揺れて、呼応して衣服がはためいた。
そよぐのは髪色と同色のゴスロリドレス。華やかな衣装であるはずなのに、喪服じみた重苦しさを存分に放っている。
狂いなく円やかな彼女の黒目が、僕を一目だけで引きつけ、縛る。
美しい。美麗だ。愛らしさも完備。だというのに、いやだからこそ――恐ろしい。
異様な容姿の彼女は、全てを見透かしたようにこちらを見下ろして、そっと告げる。
「ワタシの正体、一体なんだと思う? 的中したら褒美にキスしてあげよう」
僕もただ直感に従って、短く言う。
「あの化け物に近い、何か……」
「正解。キスはいるかい?」
「キスって、あの怪物に食べられること?」
返事の代わりに浮かべられる彼女の笑みを見れば、性格の悪さが十分に分かった。悪辣な表情ですら可愛らしいのが、この子のずるさだ。
「――ねえ、これは僕の見ている夢?」
「夢じゃないさ、現実だ」
「君の見た目は、とても現実とは思えないけど」
「それはワタシを褒めているのかい? それともその逆かい?」
「両方かな。あまりに綺麗だけど、それが少し怖い」
「大層なお褒めの言葉ありがとう。気分を良くしてもらえたお礼に、なんでも質問に答えてあげよう」
また嫌な微笑みを浮かべている幼女に、疑問を投げかける。
「あの化け物は、一体、なに?」
「装置だ。キミの幼馴染――天賦つんでを『消費』して、キミの妹である事他芽兎を『再生産』しただけの機械だ」
「僕の幼馴染は、どうして、『消費』されたの」
「簡単なことさ、キャラが薄かったんだ。要するに――つまらなかったのさ」
「つまらない? 誰にとって?」
「この世界を見ている人にとって。ワタシにとって。テンプレなんて、普通なんて、もう飽き飽きしただろう?」
「僕だって普通の人なんだけど……。特別なことは何もなくて、何もしてないくせに世界が変わらないかなって祈ってる、ありがちな人間だ。そんな僕も、あんな風に消えるの?」
「かもね」
「なにか、新しい人物の素材にされる?」
「おそらく」
「もし、僕が消えたくないと願うのなら?」
「キャラ立ちをしろ。面白くなれ。実に単純明快だろう?」
悪魔のように破顔して、幼女は禍々しく口を開く。
「この規則は誰にだって適用される。キミも、キミの妹も、キミの幼馴染も――この世界にいる誰だって、逃れられやしない。実に平等で素晴らしいとは思わないかい?」
「『消費』を防ぎたければ――」
「キミがキャラ付けをしてあげればいい。シンプルな話だよ」
僕が最高にしなければならない学園ラブコメは、こうして始まった。
世界は変わった。変わってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます