第26話
26
「システィ様、システィ様」
「……ふあ?」
強く肩を揺さぶられて、システィは自分が居眠りしていたことに気づいた。
「あれ? え、えあっ?」
すぐに自分が座っている固い椅子が地下中二階の監視室のものであることを思い出し、その理由も思い出した。
「ご、ごめんなさい! 申し訳ありません!」
平謝りするシスティだったが、そこに立っていたのは隊長や先輩ではなかった。
「トラナさん?」
「はい、システィ様」
濃い肌の従卒は控えめな微笑で一礼した。
「ど、どうしてトラナさんが……」
「交代します。システィ様はおやすみください」
「え、で、でも……」
「外でソーラ博士がお待ちです」
「あ……」
トラナの言葉でシスティの胸に罪悪感がわだかまった。
一昨日バフェットウルフの討伐にあたって重要な役目を果たしたセリカ・ソーラだったが、その際に乗っていたラバが重傷を負って死んでしまった。その埋葬を今日行うのだということをシスティは帰還する途中で聞いていた。騎士にとって馬は特別な存在だ。騎士でなくとも、人類は馬を友として長い歴史を共に歩んできた。ラバとは、馬とロバを交配させた種であり、馬より体格と速度に劣る分、馬力があり、おとなしい為、一般の市民の間で親しまれている。トマーヤの馬房商からラバを借りたセリカだったが、バフェットウルフの襲撃からシスティを庇う為に犠牲にしてしまった。自然と深く結びついて生まれたハイエルフのセリカは短い間でも相棒となっていた友の死を悼んで、きちんと埋葬することにした。その気持ちはシスティにもあった。システィが庇われた本人だからだ。名前もない彼の犠牲が自分を死地から救ったと胸の奥が痛んだ。
「私……最低だ」
居眠りして乱れた髪を揺らして呟いた。
「私には、多くの責任や義務があるのに、なんにもできていない……」
「それはシスティ様がまだ未熟だからです」
率直な言葉は非難の声色で発せられたものではなかった。
「この数日の変化はほとんどの騎士にとっても対応しきれないものでしょう。まして未熟なシスティ様には大きすぎる負担です。十二時間もの監視を許容する状況となっているのが、その証拠です」
「トラナさん、だから……」
顔をあげたシスティに、母と幼なじみの従卒は再び微笑んだ。
「ミマームからきつく言われています。あなたを頼むと。主人を劣悪な環境に置き続けることは我々の意義にも関わります」
母とトラナの気遣いに万感の思いを募らせるシスティだが、軽い靴音が反省室から響いてくると、はっと表情を改めた。
トラナも一瞬だが鋭い目つきで小窓から反省室を睨みつけたが、
「さぁ、どうぞおやすみください。上にフォルセナ隊長がいらっしゃいますので、ご挨拶なされたほうがよいでしょう」
「は、はい。ありがとうございます」
お礼を言って上階に上がっていくと、営舎の廊下には強い光が差していた。いつも浴びる朝日と同じなので、四時か五時くらいだろう。ヘルミネと夜中の九時に交代してから記憶に残っているのは夜の三時くらいまでだ。その間、フェマはベッドに寝転がって一言も発さずにいたので、寝ていたと思われる。そしてシスティとトラナの話を聞いて、起きたのだろう。彼女が何を思って靴を鳴らしたのかは、わからない。ジェニアが言ったのとはおそらく違う意味でだが、システィもフェマのことがわからなくなっていた。地下中二階の監視室の小窓から見下ろしていると、見世物の動物を見ているかのようで、同じ小隊に所属している騎士を見ているようには感じられなかった。もっと別の何かのような、薄ら寒ささえ感じることもあった。
システィは強めに頭を振った。それは良くない考えだと思い、無理やり頭から追い出した。きっと、監視者と被監視者の錯覚だろう。立場と権利がある騎士の中にはそれらを拡大解釈する者もいる。そうはならないようにと学校で教わったではないか。
リビング・ダイニングではジェニアがいつも座っている席でぼうっと天井を眺めていた。本当はそうではないかもしれないとシスティは思ったが、声をかけるまでこちらに気づいた素振りもなかったので、やはりぼうっとしていたのだと思われた。
「ごめんなさいね、システィ」
挨拶代わりに出てきたのは謝罪だった。
「まだ十六のあなたに十二時間もの監視体制を強いるなんて、たしかにおかしな話だわ。教則にも書いてあることなのに。トラナさんに言われるまで、考えもしなかった。判断能力が低下しているわ」
深いため息を吐いて、ジェニアは天井を眺める作業に戻っていった。システィはテーブルに並んだ夜食を片付ける途中で、その残り物のいくつかをつまんで朝食代わりにした。
自室でタバード、シャツ、ズボン、下着をそれぞれ新しいものに着かえて小剣を腰に佩き、外に出る途中、ジェニアに呼び止められた。
「これをブリック・ライム小隊長に届けてもらえるかしら」
「はい、わかりました」
この数日の連続した事件の報告書を束ねた封書を受け取って、システィは営舎の外に出た。号外で沸いた市民をなだめてからほぼ一日ぶりの外出になるが、それ以外では営舎は固く閉ざされていた為、陽光が久しく感じられた。
既に働き出している従卒たちと挨拶を交わして、システィはトマーヤの大通りへと出ていく。パトリア邦国騎士団の営舎は白馬騎士団の営舎とは大通りを挟んで反対側にある。まだ朝早い時間だが、出歩いている人はそれなりにいる。精霊の国として自然の中に身を置くことを肝要とするコーヤン人は野良作業や水汲みで早起きが多いのだ。
大通りに足を踏み入れた瞬間、システィは小さな違和感を覚えた。こちらを見た市民が緊張しているようだった。
「おはようございます」
いつも小麦粉を運んでいる商店の店主に挨拶すると、相手は雷に打たれたようにしゃちほこばった。
「おはようございます! 騎士ラハーマ!」
「えっ、あの……」
騎士ラハーマと呼ばれてシスティのほうが驚いた。この店主はいつも気安くシスティちゃんと呼んでいた。それが急にどうしてと問うと、
「騎士ラハーマは街を二度にわたり救っていただいたお方です」
そう店主は返答した。
「そんな……私は、なにもしていないのに……」
システィがそう言うと、店主もすこしは緊張をやわらげたが、根本的な態度は変わらなかった。それから大通りを横断するまで、彼だけではなくトマーヤの市民全体がシスティに今までとは異なる視線を向けていた。今までは〝かわいらしい新米騎士〟に愛嬌ある視線を向けていたのが〝街を救った英雄〟を見る畏敬の念を込めた視線に変わっている。特にそれは邦国騎士団の営舎の敷地に入る瞬間に強くなり、背筋が凍った。
(恐れられているんだ……)
昨日のヘルミネとの話のせいか、システィは明敏に推察することができた。システィは実力を示したが、それ以上の虚名を得たということだった。志高く公明正大であっても騎士は実力を行使して戦う者で、その前で軽々しく振る舞うことは最悪の場合は死に直結する。システィにはなにげないことだが自分は今、小剣を腰に下げている。いざとなればそれを電光のごとく抜き放つことができる。今さらながらにトマーヤの人々はそれに気づき、新米の女の子でも騎士は騎士と、システィを畏敬の対象として認識を改めたのだった。
「英雄、か……」
そうなることを夢に想ったことはある。絵本のような英雄譚は今でも心躍る。
しかし、現実に喝采を浴びてみると、居心地の悪いことこの上ない。それはシスティが自分自身に実力がないと思っているためでもあるが、喝采の後のこのよそよそしさはまた別の居心地の悪さを生んでおり、まるで世界から切り離されてしまったような気分になる。
邦国騎士団の敷地に入ると、門前で当番の騎士と挨拶する。用件を伝えると中に通されて、白馬騎士団のものと表面上はそう変わらない営舎に入ると、面会の当番をする騎士と挨拶して、隊長室に通される。システィの緊張度はほぼ最高値にまで上昇したが、再会したブリック・ライム小隊長は、
「ご苦労だった」
と、義務と形式を一歩も出ない返事をして、封書を受け取った。何か一言あるかと身構えていたシスティだったが、五秒ほど待機していても何の反応もされなかった為、退出した。
「悪かった」
扉が閉まる直前、そう聞こえたのは多分、気のせいではなかっただろう。
「……よかった」
たった一言だけだったが、救われたような気がした。すくなくとも気持ちはずっと楽になった。なにより、義務と形式に凝り固まった営舎の中は、虚名を得たシスティにも変わらず接しており、先ほどの大通りよりも居心地がよかった。営舎を辞する時にふと騎士学校の授業を思い出した。騎士の礼儀作法についてである。礼儀作法は習っているうちは煩わしいと思うものだが、こうしていればいいとお互いがわかっていることをしているうちは、精神の安定が保たれるものだ。騎士団も当然、人間同士が運営する組織であって、組織が運営されるにあたって人間関係に不和が生じているのは問題だが、礼儀作法というものがお互いの精神を包み隠して安定を装わせることができる為、ひとまず組織の運営は保たれる。まさしくそのとおりだった。今システィの精神は安定とは程遠く、また部下の多くを喪ったブリック・ライムも同様であろう。あの場面で礼儀作法を無視して感情的で非生産的な言語の応酬が始まっていれば、組織の運営にひびが入っていた。それを礼儀作法がうまく収めたのだ。
そしてまた、こうも思った。騎士として市民に畏敬の目で見られるのは当然であり、名誉なことである。要するに以前のシスティはなめられていた訳である。これからはせいぜいしゃちほこばって――でもあんまり怖がらせすぎないように――歩いてやろう。
「うんっ」
全身を弾ませるようにシスティは急ぎ足でセリカの宿泊先へ向かった。途上ですこしずつ気持ちを落ち着かせていく。セリカを訪問するのはラバを埋葬する為であり、システィは彼に助けられたのだ。
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