第19話


 19


 どうやら取り逃がしてしまったらしい。

 燃え盛る樹木の中でフェンマラノーラ・テロミアは自嘲気味に笑った。

 火精は完璧にコントロールできているので、自分に燃え移る心配はいらない。


「もうすこし役に立つかと思ったけど、こんなものなのかもしれないな」

 正規の男性騎士といっても、あの体たらくだった。せめて一撃でも入れて、自分が銃を撃つ時間を稼いでくれればもっと別の、好ましい結果が待っていたはずだ。従卒たちの周章狼狽ぶりもひどかった。ロブロス以外の獲物はしょせんただの狼だ。人数ではこちらが上回っていたし、防具も身に着けていたのだから、各自で防ぐことはできたはずだ。


「その程度もできないのなら、たしかに討伐隊を待つべきだったな。教練は弱者の経験の積み重ね、か」

 帰還を告げる呼び笛が吹かれていた。フェマはそれを無視して西に進み始めた。

 狼には傷を負わせた。刺した時の感触では、左前脚は自由に動かなくなっているはずだ。今ならまだ追いつける可能性は高い。


「それにしても、熱いな」

 フルオーダーの甲冑はフェマの体にぴったりと合っていて、軽くて通気性もいいが、あれほどの立ち回りをすれば如何せん汗をかく。

 口笛を軽く吹く。左手のほうから白馬ローシェがいななく声が聞こえて、そちらのほうへ歩いていく。


「あぁ、よかった。近くにいて」

 愛馬のたくましい首を撫でてから、腕と足の甲冑を脱いで積むと、手綱をひいて歩きだした。

 胸当てと上半身を包むタバードとズボンだけになり、鳶色の髪のところどころ乱れた部分を丁寧になでつける。

 小さな呼吸音が聞こえたのは、歩きだしてからすこし経ったくらいだった。


「まだ生きていたのか」

 それは磔にされていた二頭のつがいの狼だった。フェマが放った火が燃え移ったらしく、焼け焦げた磔台が崩れて倒れたらしい。ただ、体を縛られたまま磔の木材に押しつぶされており、自力での脱出は不可能なようだった。槍で突かれた傷も浅くはなく、放っておけば確実に死ぬだろう。


「ちょうどいい」

 フェマは薄く笑う。ローシェに積んだ荷物から青い光沢を放つ精霊筒を取り出して、蓋を開ける。それから狼の傍に腰を下ろすと、衰弱しながらも唸り声を発する口吻をナイフの柄で押し開いた。


「きみもそう簡単に死にたくはないだろう」

 抵抗の喘ぎを発する狼の口の隙間に不遜な返答で精霊筒を傾けた。そこからとろりと流れ出たのは銀色の液体だ。狼は必死に拒絶するが、フェマはそれを許さなかった。口を閉じさせ、喉を揉んで無理やりに嚥下させた。

 同じことをもう一頭の狼にも行った。

 二頭の狼はしばらくもがいていたが、すこしずつ、だが急速に静かになっていった。

 しかしフェマは、もはや死体としか思えない狼に精霊語で話しかけた。その途端、狼の目は開き、再び呼吸をはじめた。さきほどまでの怨嗟の籠もった唸りではなく、規則的な呼吸だった。その様子をしばらく満足げに眺めていたフェマが磔の戒めを解くと、這いずり出した二頭の狼はフェマの傍らでおとなしく座り込んだ。


「おまえはお行き、おまえたちの王を探すんだ」

 そう呼びかけられた一頭が、歩き始めて森の中に紛れていった。

 それからフェマは紙と鉛筆を取り出して何かを書くと、それを封筒に入れて、もう一頭の首にくくりつけた。


「さぁお行き。ちゃんと届けておくれ」

 その狼は別の方向へ向かっていく。視界から消えてから、フェマはゆっくりと腕を伸ばしながら立ち上がった。


「よし、行こう。ローシェ。狩りはまだ終わっていない」

 まるで勇敢さを表現する舞台役者のようにフェンマラノーラ・テロミアは愛馬の首を撫でた。

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