第17話


 17


「隊長、まもなくセントラントへの道に出ます」

 斥候から報告を受けて、ブリックは少し歩みを速めた。そして、日中にジェニア小隊が通過したトマーヤとセントラントをつなぐ道を横切った。


「もう、狼に近づいているはずだ」

 独り言のようにブリックが言うと、従卒たちが気を引き締める気配が伝わった。それから頭上で磔にされている狼のつがいを指さして、


「一突き入れろ」

 と、指示した。それはすぐに実行されて、苦悶に悶えていた狼の夫婦は悲愴な遠吠えを発した。噴き出した血がカミラにかかり、彼女は底知れぬものを呼び寄せている恐怖に震えた。

 ブリックは兜の緒を締め直すと、さらに用心してネックカラーを首に巻いた。そして通常の両刃の槍ではなく、斧刃のついたハルバードを担いだ。その脇で従卒が弾を込めたマスケット銃を抱えている。

 対してフェマは兜は被っているが、他には何も持たずにゆったりと従っている。脱走同然で従卒を連れてきていないからだろうか。一応、腰に小剣を吊り、鞍にマスケット銃が挟み込んである。

 カミラにも兜だけが返されたので、それを被ったが、他に武器は返されない。もしも狼が迫ってきた時は唯一携帯を許されている一本のナイフだけで防がなくてはならない。

 バフェットウルフ、ロブロスは馬上の騎士の首に噛みつき、引きずりたおすほどの力を持っている。狙われたら逃げることはできないだろう。


「隊長」

 別の斥候がブリックの前に現れた。彼は精霊の使い手で、土精を介して狼の接近を知らせてきた。


「やはり狼か。誇りだけは高いようだな」

 兜により表情は見えないが、ほくそ笑んだようだった。群れの主となるような狼は人間並みに賢く、罠を見抜いて逃げることもする。反面、仲間が危機に陥った時には見捨てることができない性格のものも多い。ただし、バフェット化してさらに発達した知能を得たものならば、半包囲されている不利を悟って一目散に逃げることも有り得たはずだ。小隊としてはそれでも良い。討伐隊が到着するまでの時間稼ぎができる。しかしブリックはロブロスが勝負を挑んでくることを望んでいる。自分の手で部下の仇を討ちたいと願っているのだ。

 前方から草摺りの、ざざ、という音がするだけでカミラは肩を震わせていた。もう一歩も動きたくないが、背中を押されて前に進むしかない。その瞬間、複数の森を駆ける音が発せられた。


「来たぞ! 合図をしろ!」

 ブリックが言うと同時に、低い遠吠えが夜明け前の山に響き渡った。

 ロブロスの声であることは疑いなかった。数時間前に聞こえてきたものと似ていながら、より邪悪な闇を感じさせる呼び声だった。

 松明が振られて、呼び笛が吹かれた。しかし、同じ音色が左右からも聞こえていた。


「なるほど」

 ブリックは感心したようにうなずいた。左雁金の隊列をとり、狼の襲撃に際して左右の班が動いて包囲する手法をとっていたが、狼もまた三つのグループに分かれて左右の班に襲い掛かることにより、中央の班――この場合は本命であるブリックの班――へ輪を縮められないようにするつもりのようだ。


「馬を下りるぞ」

 そう言ってブリックは下馬した。フェマもそれに倣い、二頭の手綱は磔台に括らせた。

 その間にも草木の中を駆ける音は勢いを増していた。カミラは彼我の距離を計算して、ナイフを抜いて両手で握った。


(もう三十、二十……数は八、九……?)

 こちらはカミラを含めて二十三人。だが、向こうにはバフェットウルフがいる。数の差はあてにならない。

 ぐっと唇を噛み締めた時、わずかに大地が震えた。


「揺れた……地震?」

 その考えは直後に否定された。

 視線を落とした時、前を歩くブリック・ライムの足元の地面が不自然な盛り上がりを見せた為だ。


「騎士ライム! 下です!」

 カミラの警告と同時に地面から飛び出してきたのは、巨大な狼であった。夜闇の中ではっきりと姿を捉えることはできなかったが、脳裏に浮かべていたイメージとは寸分の狂いもなく合致している。


「――ッ! うおぉ!」

 跳びのくブリックのわめき声。だが狂暴な狼の牙は彼の体からわずかに逸れて、代わりに左にいた従卒の腰布を捉えた。


「隊長! ……っ!」

 従卒の悲鳴は途中からまともに聞こえるものではなくなっていた。彼の体はしりもちをついた姿勢のままバフェットウルフの掘った穴に引きずり込まれていった。


「エト! エト!」

 憤怒を湛えて従卒を呼ぶが、その返事を聞く余裕もなかった。前方からまず三頭の狼がブリックに迫っていた。


「うぬっ!」

 くすんだ狼の甲冑に包んだ身体をしっかりと大地に落とし込んで狼を迎え撃つ。


「雑魚の狼風情が!」

 叫び、ハルバードを振った。その一撃は正確に狼の顎に喰い込み、打ち払った。カミラが見ていられたのはそれまでだった。彼女にも、狼は迫ってきていた。ただ、カミラの周りにはブリックの従卒たちがおり、彼らも各々で狼に対処していた。お互いに気遣う余裕はないが、さりとて一匹の狼に二人以上で相手することができる為、それほど苦戦している様子はなかった。カミラも、従卒の背中にのしかかった狼をナイフで刺して、危機を救った。

 しかし、依然として恐怖は続いていた。この地面の下にロブロスがいて、誰が次の犠牲になるかはわからない。

 そうして全員が狼と戦いながら、足元に意識を向けていることがロブロスの思うつぼであったといえる。ここにいる騎士たちは知らないことだが、ロブロスは土精だけを取り込んだバフェットウルフではないのだ。

 老獪な狼の獣声が轟いた。それが頭上からのものだと人間たちが気づく前に、ロブロスは標的に牙を突き立てた。


「ぐっ! うおっ!」

「隊長!」

 ロブロスは樹の上にいた。そこから人間の群れの主を見定めて飛びかかった。この襲撃は完全に騎士隊長の虚を突いて、重い甲冑ごと地面に押し倒した。

 さらに短い遠吠えが周囲の狼から発せられた――途端、また遠くから草摺りの激しい音がした。


「新手!」

 カミラの短い叫びが従卒たちに伝播した。ブリックはまだロブロスに押し倒されていた。

 ばぎょっ! 不可解な金属音が鳴った。


「があぁ!」

 ブリックの悲鳴が続いた。カミラが狼との攻防の隙を狙ってブリックのほうへ寄ると、不可解な金属音の正体がわかった。

 騎士を完全に組み敷いた巨狼は、その牙で甲冑を噛みちぎっていた。そのすぐ側に兜の頬当てがねじれ転がっており、あたりに血が飛び散っていた。


「おのれ、おのれぇ!」

 狼の体躯はもがく騎士より遥かに大きかった、くぼんだ腹周りでさえ、その下の甲冑を覆い隠している。針のような体毛が生えている背中にカミラは恐怖して、近づくことさえできなかった。


「どいてください、カミラ殿」

 穏やかな声がカミラを横に押しやった。


「フェマ!」

 フェンマラノーラ・テロミアだった。狼との交戦が始まってから、彼女の姿を見ていなかった。それなのに、涼し気な表情は変わらず、カミラを押しのけた手にはマスケット銃を、もう片方の手にはぱちぱちと燃え爆ぜる松明を持っていた。


「な、なにをするの!」

「決まっているじゃないですか」

 ふっ、と笑った瞬間、フェマは松明をロブロスに向かって投げつけた。


「っ!」

 驚愕はカミラだけのものではなかった。ロブロスは直前に自分を狙う気配に気づいたが、フェマの投擲はその予測すらも読み取っていた。炎の塊は狼の細い顔面を直撃して、その巨体を大きくのけぞらせた。その様を眼前で見ていたのは押し倒されていたブリックだ。そして松明は彼の胸の上に落ちた。灼熱を浴びた騎士隊長はこれまでとは比べ物にならない悲鳴をあげた。


「フェマ!」

「まだだ」

 カミラの抗議にもブリックの悲鳴にもフェマは聞く耳をもたなかった。マスケット銃を構え、既に装弾を済ませていた銃口をぴたりとロブロスに固定すると、すぐに引き金を引いた。


「……ッ!」

 音量を伴わない叫びが巨狼からあふれ出た。弾丸は首を撃ち抜いたらしい。上半身を大きくのけぞらせてロブロスは後退した。

 その瞬間、内臓を吐き出すような音声がロブロスの喉から放たれた。穿たれた傷跡が奇妙な盛り上がりを見せていた。弾丸が土精によってコーティングされていたのだ。銃弾は貫通していたので、効果は充分に発揮されなかったが、それでも巨狼は激痛に身をよじっていた。


「まだ」

 若い白馬騎士は満足していなかった。銃を捨てざまに跳躍してロブロスに飛びかかった。いつの間にか、彼女は深い青色のマントを羽織っており、それが揺らめいて炎の上を渡った。狼と騎士がシルエットを重ねたと思った瞬間、騎士のほうが跳びのいて距離を置いた。狼の首には新たにナイフが刺さっていた。

 フェマの手にはさらに一本のナイフが握られている。さらに左手がマントの裏をまさぐると、また一本のナイフが出てくる。

 わずか数秒の出来事だった。唖然としていたカミラは、松明に炙られるブリックの苦悶を聞いて、慌ててその松明を取り上げた。


「騎士ライム、ご無事ですか!」

「あ、あぁ……うぐっ!」

 助け起こしたブリックがまた呻いた。


「あ、足が……!」

 そう言われて足のほうを見ると、地面からうねるように木の根が生えて足首を捕まえていた。おそらくロブロスがやったのだろう。がっしりと締め付けていて、剣で断ち切ることも難しそうだった。そもそも自分の手だってまだ縛られたままなのだ。

 低い唸り声がした。それはロブロスが発したもので、従卒たちを襲っていた狼が一斉に攻撃をやめて、ロブロスの近くに集まった。

 逃げようというのではないようだった。巨狼は目をぎらつかせて前に立つ騎士――フェンマラノーラ・テロミアを睨んでいる。

 対してフェマは自分を半包囲する狼の群れに気後れすることもなく、身体の側面をロブロスに向けて、首から下を深い青色の布地の下に隠すようにマントの裾を手繰っていた。

 狼たちは数の優位性を確信したまま、合図なしに一斉に襲いかかった。しかしフェマはその一瞬前に駆けだした。


「フェマ!」

 無謀な突進に思えたが、フェマの狙いは――事件の始まりから一貫して――群れの主にあった。配下の狼たちが獲物の疾走に気づいて踵を返した時には、騎士と巨狼は再び一対一の状態となっている。しかし体長二メートルを超すロブロスだ。銃弾を受け、首にナイフが刺さっているにも関わらず、大きく跳び、嵩にかかって踏みつぶそうとした。


「所詮はけだものだね」

 ぶつかる寸前、フェマの体が急停止した。マントの裾を手繰り寄せて押し寄せる狼の爪がはためく生地にひっかかると、一振りでそれを払いのけつつ、脇に抜けた。伸びきったロブロスのあばらに向かってナイフが閃いた。

 鈍い衝撃の音がカミラにも聞こえた気がした。フェマはロブロスと立ち位置を逆にして、悠然と立っていた。兜から覗かせる横顔は綽綽とした笑みを浮かべている。

 だが、ロブロスが刺されても、まだ配下の狼たちは無傷で残っていた。自分たちが出し抜かれたことで余計に怒りが増したらしく、低く唸った後にまたフェマに向かっていった。


「たまらないな」

 フェマの笑みは嘲笑に変わっていた。その手にはナイフに代わって小瓶が握られており、腕の一振りで中の液体が周囲に撒かれた。さらにもうひとつ、精霊筒を投げた。


「お行きよ、火精」

「!」

 不吉な宣告から辺り一面が炎と化すまでは数秒の間しかなかった。


「に、逃げて! みんな逃げて!」

 叫ぶ必要もなく、従卒たちは全員炎から距離を置こうと逃げ始めていた。

 先に撒かれた小瓶の液体は油のようだ。それもかなり揮発性が高く、燃え広がると同時に異様な悪臭を放った。

 狼たちは噴き上がる火炎をまともに喰らってのたうち回った。悲痛な声音で吠えまくって、逃げ出したり、自分の体についた火を消そうとしている。


「ぐ、おぉ……っ」

 カミラの傍らに倒れていたブリックは自分の足に巻き付いた木の根を断ち切ろうと、ナイフを差し込んでいた。何度か刃を往復させて根を切ることに成功した時には、炎はセントラントの森を蚕食して際限なく膨張していた。


「立てますか、騎士ライム」

 カミラが訊ねると、ブリックは脂汗を浮かべて首を横に振った。肩を貸して立たせようとすると、それを見ていた従卒たちがすぐに集まってカミラに代わり、自分たちの主人を助け起こした。


「早く逃げましょう」

「ロ、ロブロスは……ロブロスはどうなった」

 苦痛に耐えながらの問いに後ろを振り返ると、そこはもう炎の壁以外の光景はなかった。


「狼はいません。逃げたか、火の中か」

「撤退の合図を送ってくれ。できる者は、消火を」

「あの炎はフェマの精霊です。きっと時間が経てば収まるでしょう」

「……あんな、小娘の言うことなど、真に受けなければよかった」

 足を引きずって逃げる途中、ブリックはそう洩らした。


「俺も馬鹿なことをしたものだ」

 フェンマラノーラ・テロミアは、班がセントラントへの道に出てきた時にはいなかった。フェマ以外の従卒たちは全員いたが、ロブロス以外の狼とも激しい戦闘をしていた為、傷を負っていない者は一人もいなかった。一人は肩の肉を半分以上も食いちぎられて気を失っている。

 少し休んで自ら立てるようになったブリックはトマーヤへの撤退を小隊に命令した。他の班も狼の襲撃を受けていたので、今でも松明と呼び笛が夜明け前の山で応酬を繰り返している。


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