第14話
14
銀霊筒を手に、祈るように精霊の言葉を繰り返してた。
システィには小屋の周囲で燃え続けている炎を押さえる役目があった。その炎の中にはシスティが捕まえた火精がいて、うまく制御することで延焼をふせぐことができた。
燃え盛る火炎に反して見張り小屋の中は深い海の底のようだった。バフェットウルフ、ロブロスと彼に率いられた狼の群れは小屋の屋上にいた二人の従卒をさらっていった。襲撃の瞬間には悲鳴が二回聞こえた。そこにはロブロスが一頭で現れ、たちまち二人を殺傷した。そして一人をロブロスが、もう一人を群れの配下たちが屋上に上がって引きずりおろしていった。
(この火の向こうで……)
その先は疑う余地のないことで、システィは炎の熱を忘れて震えた。襲われた二人はコリンナに忠実な男たちだった。システィも名前は知らなくとも顔は知っていた。連れ去られた瞬間、彼らはまだ生きていた可能性があった。銀霊筒を持つ祈りの形の手の力が強くなった。システィの正面には火精がいた。はじめは大火の中で狂喜乱舞していたが、システィが話しかけると、すこしずつおとなしくなっていった。
「いい子ね。そのままゆっくりね」
雑草を燃料にシスティの背丈よりも高く燃え盛っていた炎が、膝下まで勢いを弱めていた。炎の中心は篝籠を立てる為に円形に掘った土の椀の中に納まっていた。精霊は他の自然とは明らかに異なる存在であるが、意思を持ち、言葉を理解する。そしてとても素直である。彼らは存在を認識できる者ならば、誰の言葉でも従う。忠誠や義理の概念はない。
コリンナ・マレーンが仕掛けた精霊の結界も、精霊が滞在していることを認識して、語り掛けることができる者がいれば、たやすく通ることができる。その為に木精と土精、二種類の精霊で結界を張ったのである。ロブロスが騎士が培った経験と同じように、一種類の精霊と同化したバフェットウルフであったならば、土と木のどちらかの精霊の結界に引っかかったはずだ。
しかし、あのバフェットウルフは土と木の両方の精霊と同化していたのだ。二つの結界を通り抜けて、屋根に上り、致命的な一撃を与えた。ロブロスはそこにちょうど腹を満たせる獲物がいたから屋根に上っただけで、小屋の中に奇襲してきた可能性もあった。そうなっていた場合、全滅も有り得た。
あのかがり火を倒して広がった炎が、システィが火精を放ったかがり火の炎であったならば、炎の中を逃げるロブロスを捕らえることができたかもしれない。
何もかもが終わってしまった今になって、いろいろな考えが駆け巡っている。このうちの十分の一でも数時間前に思いついていればと後悔する。
「トラナさん」
「はい、システィ様」
一階の小さなキッチンにいる従卒を呼んだ。そこに曳き入れていた白馬たちの世話を頼んでいたのだ。システィの愛馬アーサーは前膝を屈めて震えているようだった。ウィニードラゴンとの戦いの際にも震えていた。日々の訓練や巡察ではなく、実戦となって初めてわかった。アーサーは――おそらく本人も知らなかったところで――臆病な性格なのだろう。今システィの声を聞いてこちらを振り返って見つめている。その瞳は叱られるのを怖がる子どものようにも見えた。当然システィにその気はない。しゃがんで首筋をなでてやってから、あらためてトラナを呼ぶ。
「はしごを用意してもらえますか。上に上がってみたいの」
「大丈夫ですか。まだ狼がいたら……」
母と幼なじみのトラナがまるで自分の娘のことのように心配してくれるのがわかる。
「危なかったら、すぐに戻ってくるから」
「なら、私も行きます」
「わかりました」
うなずいて、はしごを用意してもらう間に甲冑の弛みを締めて、刃渡り六十センチの小剣とランタンを持った。テーブルにはまだゲームに使っていたカードが散乱していて、あの苦いコーヒーといくつかのカップがそのままになっていた。
足元の火に注意して、トラナが先にはしごを上り、システィも後に続く。
屋上にはもう何者の気配もなく、二つの月の明かりだけが寂しく照らしていた。二人は貯水槽の近くでまだ新しい血痕を見つけた。
「やはり、二人とも連れ去られていってしまったのですね」
血痕は左右に分かれて水たまりをつくっており、別々に引きずられていった跡がある。
「見て。足跡が」
ランタンで照らして注意深く観察すると、引きずられていった跡に血のついた狼の足跡があった。その方向を見るにロブロスのものと思われる。
システィは紙を一枚出して、その足跡に押し付けて採取した。
「大きい……」
元がこの土地の群れの主であろうと推測されていたロブロスだが、システィの予想を上回っていた。騎士学校の頃にバフェット化した動物の剥製や足跡などを見たが、 それよりも大きく、横に並べた自分の手から二回りもあった。
「システィ様」
静かだが、注意を促すトラナの声に顔を上げると、夜に溶け込む指がまっすぐ正面に向けられていた。その指し示す先を追って視線を動かすと、深沈とした闇を湛える山と森の向こうに仄かなオレンジ色の灯りを見つけた。
「なに、あれ……」
「あそこだけではありません」
立ち上がったシスティを誘導するように指先が水平に移動する。等間隔に点々と灯りが点いていた。
「松明の火のようです」
「たいまつ……?」
数えれば灯りの数は二十を超えていた。端から端まで数千メートルにも伸びて、こちらに近づいている。
「まさか、ブリック隊長の小隊?」
なかば確信をもってのつぶやきだった。
「おそらくそうでしょう。さきほどの呼び笛の音を聞いて、こちらにバフェットウルフがいると睨まれたのでしょう」
彼女にしては長く注釈をつけた返答にまだ若いシスティは動揺を隠せなかった。
「ど、どうしよう。どうしたらいいのかしら……」
「落ち着いてください」
新しい解法を教える家庭教師のような口調で濃色の従卒はシスティの肩に手を乗せた。
「ただいま、騎士マレーンはおやすみなされています。よって、指揮権はシスティ様にあります」
「わ、わたし……?」
「はい」事実であるかのようにまず断言して、トラナは続ける。「あのブリック様の第二小隊の動きは狼を捕捉せんが為のものであることは疑いありませんが、おそらく私たちはおろかフォルセナ小隊長にさえ伝えていないでしょう。また、騎士マレーンは四時間の経過以外に起こす為の条件もありません。つまり、私たちには命令がありません。私たちはここから動かずにライム小隊長の狼狩りを眺めているか、出撃して挟み撃ちを試みるか――」
「ま、待ってください!」
淡々と選択肢を与えてくるトラナの口を止める為にシスティはなかば叫ぶように割り込んだ。
「こ、コリンナさんを起こします! 起こしちゃいけないって命令だってないんですから! そして相談します!」
「……かしこまりました」
承諾までに費やされた時間は長かった。その間ずっとトラナはシスティを静かな目で眺め、何かを考えていたようで、システィは不安になって訊き直してしまった。
「ひょっとして……間違い、ですか……?」
「いいえ、システィ様はまだ若い。不測の事態に上官に判断を委ねるのは間違いではないでしょう」
日焼け色の濃い顔にやわらかな笑みを浮かべて、トラナは屋根から下りるように促した。それから、主の背に向けて小声で言った。
「少し、物足りなくはありますが」
「え? どうしました?」
「なんでもありません。騎士マレーンを起こすのは大変なことかもしれないと思っただけです」
「う、うぅ……」
荒野育ちで独立心の強いナハーラーム人のあのコリンナを起こす。その寝起きの行動がどういうベクトルを向くのか、システィには見当もつかないことだった。
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