第11話
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「ここが狼の縄張りなら、すぐに逃げて牧場に戻るべきではないですか」
正直に自分の恐怖を伝えるシスティーユ・ラハーマに背の低い白馬騎士は椅子ではなくテーブルの上にあぐらで座り込んだまま、目つきだけを鋭く変化させた。
「逃げる? 今から? 一時間以上かけて?」
冷淡な反問にコリンナ・マレーン自ら答える。
「もう私たちがこの小屋に入ったことは、とっくに仲間の狼が知らせているはずだわ。見張られていたのは私たちよ。そして分断に成功したバフェットウルフ……ロブロスは真っ先に私たちを狙ってくる。そこをのこのこ外に出てご覧なさい。屋上に狼の貯蓄が増えるだけよ」
「じゃあ、どうするんですか……?」
地図を開いたテーブルに着いているのはシスティとコリンナだけで、従卒たちはそれぞれ与えられた職務をこなしつつ二人の話に耳を傾けている。彼らは意見を求められれば応えるが、決定権はなく、騎士の命令に従うだけである。決めるのは二人の騎士だけだが、片方はいまだ三ヶ月の新米であり、すべてにおいて足りない。意見はするが結局は上官の決定を引き出すまでの過程の儀式に過ぎない。
「籠城よ。こもるしかないわ」
「こ、こもる……ここにですか」
システィは窓の外を見た。もう太陽は山の陰に落ち込んで、辺りは暗闇が覆っている。いや、たった今、明るくなった。外でかがり火が焚かれたのだ。
昼と夜の境界を裂くように遠吠えが山の中に響き渡った。それは狩りの合図であり、宣戦布告でもあった。
「近いわね」
コリンナが呟いた。
「ロブロスが一番近いのはたぶんここ」
木窓がとんとんと叩かれた。外にかがり火を置いた従卒がロープを持っており、中の者に手渡した。
「迎え撃つ準備はできてる」
ロープはその一本だけではなく、四方の窓の隙間から伸ばされてテーブルの上に置かれている。それぞれの窓からかがり火が見えている。
「これを引っ張れば、かがり火は倒れて、草を燃やして辺りを火の海にする。ここがレンガでよかったわ。まあ蒸し焼きになる可能性もあるから、最後の手段だけど」
「いきなりそんな、相討ち覚悟じゃないですか」
「ドラゴンと一人でやりあうよりは、マシだと思うけど」
こともなげに言われると、システィはむしろ恥ずかしさで赤面してしまう。それを隠そうとしばらく考えていたことを訊いた。
「でも、バフェットウルフは、あの屋上のドラゴンを倒したんですよね」
「そうね。間違いないと思うわ」
「ひょっとして、あの私が、じゃないですけど、倒したドラゴンの仲間だったんじゃないですか」
「おもしろい発想ね」
あぐらのまま頬杖をついて、小さな騎士は笑みを浮かべた。
「テデリの話だと、腐敗の具合から見て一週間前後という話だったわ。上のドラゴンが死んだのはね。ドラゴンの報告は四日か五日前。ということは、あいつらは元々この辺りにいた。そしてロブロスに追い出された。そういうことかしら」
「バフェットウルフならドラゴンに勝てるんでしょうか」
「聞いたことはないけれど、現に勝っているわ。数で押したか、ロブロス個人の力か」
「そんなのに、今……狙われているんですか……」
キッセイ牧場で見た変わり果てた人間の姿を思い出して、気が重くなる。
「まあ、いろいろと打てる手は打つわよ」
そう言ってコリンナは机に泥団子を二つ置いた。それはただの泥団子ではなく、ひとりでにぐらぐらと揺れている。
「土精ですか?」
コリンナは精霊使いとして有名であった。その力によって身を立てていると言ってもいい。
さらに精霊筒を四つ出した。システィが授与された銀霊筒とは違い、素朴な見た目のものだ。
「こっちには木精。システィ、あんたの火精も出しておきなさい」
いつの間にか、二つの泥団子はそれぞれ四本の短い足と鼻のような出っぱりを出していた。亀のようにちょこちょこと歩くそれを掴み上げて、コリンナは小屋の外に出ていく。システィが気になって後をついていくと、コリンナは地面に屈みこんで土精を一体ずつ抱えるようにして何かを集中して呟いた。そうして土精を下ろすと、土精はしばらくぷるぷると震えてから、沈むように土の中に潜っていった。
システィはそれが神聖な儀式であるかのように見入ってしまった。背は低くともコリンナは騎士でありベテランの精霊使いである。慣れ親しんだ精霊に自分の一部を同化させて、自然の中に遣わしている。
二体の土精を土の中に送ると、四本の精霊筒を手に森に入った。太い幹の樹を選んで、その樹脈に沿うようにナイフを滑り込ませて切れ目をつくる。精霊筒から黒檀で出来た細長い棒を出すと、切れ目の中に埋めていった。中ほどまで埋まった黒檀を握りながら、土精と同じように精霊に言葉を呟いた。同じことを東西南北、見張り小屋と森の境目の樹に行った。黒檀の棒はよく見ると人間の上半身の形が精妙に彫り込まれていた。
システィは銀霊筒から火精をかがり火のひとつ、正面口に置かれた火の中に放った。かがり火の周囲の地面は円形に掘ってあり、倒した場合は周囲を火の海にした後、そこに灯芯が残るようになっている。
ちょうどその時、梯子からウィニードラゴンの死体が下ろされた。血と肉の腐液にまみれた死体はなお一層強烈な臭いを発しながら森のほうへ捨てられた。
「水の備えがありません」
最初にシスティと貯水槽を確認した年かさの従卒のテデリがコリンナに告げた。地下の部屋に近くの川から水を引いていたらしいが、こちらは川のほうから栓がされている。地図にはその供給源らしい川がトマーヤから流れてキッセイ牧場の傍まで続いていることが記述されている。
「今夜一晩は我慢ね」
コリンナは冷静に答えた。
「本隊に連絡を取るのも明日の朝になってから、向こうが下手に動いても、奴らに捕まる可能性があるわ」
ドラゴンの死体を確かめてから、コリンナは呼び笛で自分たちは無事に到着したと知らせていた。ただの狼でも賢いものならば、笛の音色の意味を知っている。慌てて救援を求めれば裏をかかれる恐れがあった。
小屋の中では浴室から溢れてきた腐液の掃除に手間取っていた。水がないので洗い流すことができず、最終的には仮眠室の毛布をかぶせて無理やり浴室に押し戻した。
狼を迎え撃つすべての用意――万全からは程遠い――が終わった時にはすっかり夜になっていた。銃、剣はすぐに使えるように広間に置かれて、外に火をつけるかもしれないからと白馬まで中に入れて、刈り取った雑草を敷いていた。
夕食はパンとリンゴだけだった。三日分の食材を運んできていたが、水がなければ調理もできない。パンを食べて失った水分をリンゴで補給するという具合でもそもそと食べた。
「システィは寝ときなさい」
食べ終わると、そう言われた。
「どうせ起きていられないわよ。交代で起こすから、今から寝ときなさい」
「すみません」
実際、できることはもうなくなっていた。夜の帳に人間は無力だ。それはシスティーユ・ラハーマだけのことではなく、ここから先の時間は狼の――敵の時間になる。恐怖に怯えているのは自分だけではなく、この小屋にいる全員だ。
いつも夜の八時には眠りに入ってしまうシスティはもう何回もあくびをしていた。騎士として野営の訓練も受けていたが、その必要なない時期の方が長く、やはり夜は苦手だった。席を立って、地下に下りる前に一回のキッチンに寄った。そこには外につないでいた二頭の白馬が移動させられていた。
「ごめんね、窮屈で」
白馬のアーサーとクラークを撫でる。アーサーは気にするなという風に顔を寄せてくる。クラークは主人に合わせて背が低いが、落ち着いた所作で首を下げている。
「あとでお砂糖あげるね」
そう言ってから地下に下りて、仮眠室で営舎のものとそう変わらないベッドで横になった。違うのは、甲冑を脱ぐことができないということと、はす向かいの浴室が気になるということだけだった。
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