第9話
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トマーヤから南の山へ入り、しばらく行くと峡谷の中にセントラントという狭いが平坦な草地がある。ここに牧場をつくり、少ないながらも馬や牛を育てている。コーヤンは深い山林の中の国であるので、少しでも資源を増やそうと努力しているのだ。
キッセイ牧場はセントラントでもっとも大きな牧場であった。広さだけならばトマーヤの半分にもなり、牛は五十頭、馬は三十頭いた。牧場主のアーバン・キッセイはトマーヤに屋敷を買って、牧場の世話はすべて使用人に任せてしまうほど裕福な人物であった。
そのキッセイ氏が酒食で膨らんだ顔まで青ざめさせて請願に来たのが今朝である。ジェニアとの朝食を終えて、他の騎士たちが起床してきた頃にやってきて、こう言った。
「うちの使用人が二人も狼に喰われてしまった。他の使用人も全員やめてしまうと言い出したのだ。はやく狼どもを追い払ってくれ」
もとよりそのつもりであったが、これは騎士団にとって渡りに船のような話であった。さっそくジェニアはキッセイ氏を連れてブリック・ライムの下へ行き、狼退治の費用を供出してもらえるように交渉を始めた。
他の第二小隊の白馬騎士五人は先にセントラントに向かうことにした。騎士は五人でもそれぞれに従卒がついており、四十人を超す大所帯ではある。
システィの従卒は四人だった。老婦のツェパを含めて、夫婦で従っているヤシロとエレノ、そして母の友人の女傭兵トラナだ。ヤシロとトラナは剣の扱いに長けており、ツェパとエレノは食事などの世話をしてくれる。
本来なら新米騎士のシスティに四人の従卒を雇い入れる俸給はない。母のミマームがその半分を出している。これは騎士の家柄で慣習化していることであった。
一方で二つ年上でしかないフェンマラノーラ・テロミアは十二人もの従卒を連れている。四代にわたって邦国の長官を輩出した名門ともなれば従卒にも気をつかっており、見るからにたくましい者もいるし、世話係の女性もどこかのお姫様かと思うほど綺麗な人であった。
カミラ、ヘルミネ、コリンナもそれぞれ従卒を連れて慣れた足取りを踏んでいる。こうして並んで進むと、途端に自分がみすぼらしく思えてくる。現実にシスティはここにいる誰よりも年下で新入りで、金もないのだ。
人の足と荷車で踏み固められた山道を抜けると、一気に視界が開けた。先日ウィニードラゴンと襲われた場所とはまるで違う広い薄緑の草地が辺り一面を覆っている。険しい峡谷に囲まれた平地が初夏の色彩と香りで満ちていた。システィは感嘆の息をこぼした。
「きれいですね」
「あぁ」
隣りのヘルミネがうなずいた。
「本当にバフェットウルフなんているんでしょうか」
「いるさ、あそこを見な」
そう言ってヘルミネが指さした先には何体かの折り重なった動物の死体があった。まっさらな緑の中でそこだけが赤黒く盛り上がっているのが凄惨さを際立たせていた。
「もともとこの牧場は狼害があった。元をただせばここはあいつらの狩場だからね。それを追い出したのは私たち人間だ」
第二小隊はセントラントの牧道を辿ってキッセイ牧場に入っていった。出迎えた六人の使用人たちは煌びやかな白馬騎士の姿を見て安堵しているようだった。
「騎士の皆さまがた、ようこそおいでくださいました。わたくし、キッセイ様より牧場の管理を任されております。オリバ・タロンと申します」
オリバと名乗った白髪の頭頂部が禿げている五十代の男が先頭に立って頭を下げる。平服を着ているが、普段は他の使用人と同様に野良仕事を行っているのだろう。肉付きは良いが、頬が痩せて日々の苦労を思わせる。そこにバフェットウルフの襲撃があったのでは、心休まる時はないであろう。他の使用人たちも安堵の陰には恐怖が沁みついていた。
副隊長のカミラ・ロシェルが相手を安心させるような柔らかな微笑みを返した。
「ご苦労様です。さっそくですが、狼に襲われた遺体の検分をしたいと思います。よろしいでしょうか」
「えぇ、ぜひとも。わたくしどもも、早くあれを始末したいものですから」
兜と鎧を脱いで身軽になった騎士たちは従卒らに白馬を預けて、あの赤黒い死体の山へと向かった。
「うぅ……」
強烈な臭気にシスティは顔をしかめた。まだ三十メートルは距離があるというのに、もう鼻の裏にまでこびりついて離れない。
「システィーユ、無理をしなくてもいいのですよ」
カミラが気遣ってくれたが、システィは首を横に振った。隣でフェマが鼻を鳴らして見ているからだ。
「被害に遭ったのは牛八頭に馬三頭、それに使用人の女性が二名」
ヘルミネが報告書の内容を反芻した。十一頭分の動物の死体が積み重ねられた脇に、革袋が二つ並んでいる。
狼や熊は一度自分の獲物としたものに強い執着を持つ。襲われた死体をこうしてまとめて牧場の離れた場所に置くのは、その匂いを混ぜて警戒心を高めさせて安全を確保する手段でもある。
なかには死んでから数日経っているものもあるのだろう。饐えた匂いがひたすら神経を逆撫でしてシスティは立っているのもやっとだったが、先輩の白馬騎士たちは時折りハンカチで鼻下を覆うのみで、淡々と死体を見ていく。フェマでさえ真剣なまなざしでうんうんとうなずいて見ている。正直なところ、同じ女性なのが信じられない。そう思って立ち尽くして見ていたシスティだが、しばらくすると遠巻きに見ていた牛の死体の噛み跡や激しい抵抗の痕跡が気になり始めて、いつの間にか検分に参加していた。
しかし、革袋を開けて使用人の死体を見た時には耐えられなかった。喉に噛みつかれ、引き倒され、振り回され、そして肉を喰い漁られた女性の肢体はシスティだけでなく全員が目を背けて、もともと気の弱いカミラはいったん離れていってしまった。システィもその後に従うことにした。
「……狼ね」
青ざめてハンカチを口元にあてながらカミラは呟いた。死体はどれも狼の爪と牙で引き裂かれていた。いくつかは骨まで噛み砕かれていた。
一方でシスティが思い出していたのは、ブリック・ライムの小隊で犠牲となった騎士マルコのことだった。小隊同士の顔合わせでしか見たことのない、おそらくは自分と同い年の新入りだ。一命はとりとめたそうだが、彼の体にもあの女性たちと同じ傷がついているのだろうか。
ひとつ間違えれば、システィがそうなっていたかもしれないのだ。ウィニードラゴンという、より残虐で狡猾な相手によって。
ブリックの第二小隊はセントラントとは別の入り口から森に入り、南下している。そちらがバフェットウルフを最初に発見した森だからだが、被害はこちらでも起きている。バフェットウルフは周辺の群れを統合して率いることが多く、今回もその例に漏れず多くの狼が彼の群れに入ったことが推測されている。さらに膨れ上がった集団を人間の軍隊のように動かす知恵も持っている。ジェニア小隊とブリック小隊、どちら側にバフェットウルフがいるのかはわからない。セントラントの牧場を襲ったのは別動隊の役割をする群れかもしれないし、結局はひとつの群れであちこち移動し続けているのかもしれない。
そのあたりの目星をつけるのが、当面の捜索の目的だった。
カミラの体調が良くなった頃にトマーヤからジェニアが愛馬ペドウィンにまたがって到着した。
ジェニアも検分に加わると入れ替わるようにフェマがシスティたちの所に来る。
「新入りがさぼっているのは感心しないな。牛や人の死体を怖がっていて騎士が務まるかい」
システィの気分が悪くなったのは、死体を見たからではなく、騎士マルコの件を思い出したからであった。それでついむっとして言い返した。
「テロミア先輩だって、いまさぼっているじゃないですか」
「ボクはもう見飽きたから失礼させてもらった。穴が空くほど見たってなにも解決しない。ひとつ閃きを感じればそれで充分さ」
小ばかにするように肩をすくめるフェマ。どこも汚れてはいないのにハンカチで軽く袖口を払って、ミリ単位で乱れた髪を直している。すらりとした背と青い髪が放つさわやかな雰囲気は山間ののどかな牧草地でも萎れることがない。
「なにかわかったんですか」
「いくつかのことはね。それは隊長たちの前で披露することにしよう。横取りされてはたまらない」
「そんなことしませんよ」
そのやりとりの間にジェニアたちが検分を終えていた。犠牲者を弔う用意をするよう従卒に指示すると、牧場の真ん中で軽く腕を組んだ。
「さて、探索任務に少し訂正が出ました」
手挟んだ書類を示すジェニアに騎士は居住まいを正す。
「バフェットウルフ……あぁ、まず呼び方ね。今回のバフェットウルフは個体名をロブロスとします。七一二年の貴族殺しの強盗の名前ね。このロブロスが率いる群れはもともと三十頭にも及ぶ上に、冬には子どもも生まれているはず。なので、その気性は非常に荒くなっていることが予想されます。一方でこちらは戦闘に耐えうる者を集めても三十人足らずで、ライム小隊長のほうも六十人ほどです。私たちはあらためてコーヤンとパトリア両邦国に救援を要請して、討伐隊を派遣していただくことになります。それまで私たちはトマーヤの市民に被害が出ないよう防衛と探索に専念するように――以上です」
「よかった……いきなり討伐ということはないのね」
安堵の息を洩らすカミラ。
「その通りだけど、それはあくまでもこちらから出ていかないという話。向こうから攻めてこられたら、こちらも戦わなくてはいけないわね」
そのうえでとつなぎ、
「とにかく私たちはセントラントとトマーヤへの狼の侵入を阻止する必要があります。当初の行動では三人二班に分かれての哨戒でしたが、二人三班に変更します。私とフェンマラノーラ、カミラとヘルミネ、コリンナとシスティーユです。一班はこのキッセイ牧場に待機、残りの二班で哨戒を行いますが、コリンナとシスティーユは先にセントラントとトマーヤの間にある見張り小屋を見てきてもらいます」
「見張り小屋? そんなのあったっけ」とコリンナ。
「だいぶ昔に使われていたものらしいわ。ここを修復してトマーヤに侵入しようとする狼を探す拠点にするの」
ジェニアがコリンナに地図を渡す。
「遺体の傷は、やはり狼によるものでしょう。まずは生息域の把握が必要です。牧場の方々にも協力を仰いで、危険区域を選定して市民が近づかないよう呼びかけることになります」
「お待ちください、隊長」
高く手を挙げたのはフェンマラノーラ・テロミアだった。
「なんだ、フェマ」
わざと威圧的な態度で制しようとするヘルミネには目を向けず、青髪の騎士は意見した。
「討伐隊を待つ必要などありません。狼の群れではなくバフェットウルフ一頭を倒せば済む話です」
「あのなぁ、それができるなら誰も苦労はしないんだよ」
「できます。すでにその手掛かりは掴んでいる」
フェマの自信ありげな表情は他者を引き込むものがあった。別の者だったならば、ただ尊大で不敬とも思えるようなものなのだが、そうは言わせない力強さがあった。
「言ってみなさい、フェマ」
ジェニアの許しを得てフェマは自説を披露していった。
「死体についている狼の噛み跡はおそらくバフェットウルフのものではありません。ごく平均的な狼の大きさで、バフェットウルフ自身はこの場にいなかったことがわかります。群れの主が一番に攻撃するのが狼ですから。おそらくこの一帯にいるのは群れの本隊ではなく、本隊はブリック殿のところでしょう。現実に騎士一人が襲われておりますし、その周辺に執着している可能性は高い。それにこの辺りはご覧の通り山が入り組んでいる。風向きが入り混じってこちらの気配も探られにくい。ここからならば本隊のいるエリアを挟み撃ちにすることも可能です。群れが二つに分かれているのなら、各個撃破に出て中央を粉砕するべきです」
システィは感心して聞き入っていた。よくこれだけのことを四人もの先輩騎士たちを前に言えるものだ。途中からは立て板に水の流れる如く溢れるフェマのしゃべりに酔いそうですらあった。
一方で慎重に耳を傾けていたジェニア・フォルセナは、すべてを聞いて二、三度吟味するようにうなずいた。いずれにせよ決定権は小隊長にある。
「いい意見だわ。でも、採用はしない」
「なぜ!」
「理にかなっている部分はある。可能性は高いと私も思う。でも、あくまでも普通の狼と普通の人間の話。相手はすでに、私たちの道理からは外れた存在になっているのよ」
まだ納得のいきかねる表情でいきりたつフェマにジェニアは慎重に言葉を選んでいった。
「群れが二つに分かれているといっても、それでようやく敵の数を上回ることができる程度。そこで主のロブロスを討てる確率は低い。時間をかけて、狼の別動隊がこちらに来た時、挟み撃ちにされるのはそれこそ私たちよ」
ふと朝食の時の会話を思い出した。
「小隊同士の連携を欠く状態」
ジェニアはそう言っていた。そしてその一端を自分が占めていると思うと、自然と顔が下を向く。
「いいこと、フェマ。私たちの任務は狼を討伐することではなく、犠牲者を増やさないことよ。それは私たち自身も含まれるわ」
穏やかな上官の声にシスティと二歳違いの若い騎士は反論を失ったようだった。
「わかりました」
落胆は伝わるが、それは表情には出ていなかった。落ち着いて頭を伏せると、口を噤み、襟を整えた。
「後は、いいですね。各自行動にあたってください」
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