第8話
8
精霊と他の生物が完全に同化した時、それが――人間にとって――良い方向へ進んだ場合をエルフ化といい、悪い方向に進んだ場合をバフェット化という。
同化した動物は種族としてワンランク上の領域に立つ。
そこにはやはり優越感が芽生える。人類はその驕りを精霊学の教えによって自制させることで、良い方向に導き、エルフ化する。
これが自然に生息する動物であった場合、ほとんどは他の生命への過大な嗜虐心に結びつく。そうして精霊の力に増長して狂暴化することをバフェット化と呼び、単純にバフェットとも記される。
その狼はおそらくトマーヤの南の森で王として君臨していた個体とみられる。いままでも何件かの被害が確認されている。自然との長い同調の末に精霊を味方にする術に目覚め、同化して、バフェットウルフとなった。
人間にとってバフェット化した生物はウィニードラゴンよりも身近で、脅威でもある。彼らは獣の特性をそのままに自然のあらゆるものに擬態して、用心深く狩りを行う。過去、邦都コーヤンが二体のバフェットウルフの夫婦が率いる群れに包囲されて、人の出入りさえもできなくなってしまったことがある。それでもバフェットが大陸の支配者に名乗りをあげないのは、あくまでも個体単位での凶悪さであり、騎士団にて対処可能であるからだ。
ブリック・ライムの小隊が遭遇したバフェットウルフはウィニードラゴンの討伐と合わせてコーヤンとパトリア両邦国に報告された。以後、滞在している二つの部隊――パトリア邦国第三騎士団第二小隊と白馬騎士団第三連隊第二小隊は、昼夜を分かたず山谷を哨戒してバフェットウルフとその群れの全容を探り、討伐隊の到着を待つことになる。
白馬騎士団の新米騎士システィーユ・ラハーマは早朝四時には起床してパジャマからズボン、袖なしシャツに着かえる。その上から上着と青色のタバードをかぶるように着て、腰ひもを結ぶ。
部屋を出ると、まだ誰も起きておらず、静かな営舎の廊下には突き当たりの窓から朝日が差し込んでいる。
玄関との間にあるリビング・ダイニングにも誰もいない。カーテンを開けて外を見ると、対面にある従卒の為の館で何人かが忙しげに働いているのが見える。小隊で一番の早起きはシスティで、次にジェニアだが、そのジェニアでも五時過ぎが多く、従卒たちは主人が起きる前に朝食の用意や厩舎の掃除などを終わらせている。
システィの早起きは単純に性格だった。まだ誰も起きていない営舎の中で昨晩誰かが使ってそのままになっているキッチンなどを掃除したりして時間を潰すのが今の日課になっている。
騎士学校に通っている間は上級生の世話を下級生がする決まりがあり、その間に家事雑事も覚えるようになっているのだが、卒業して従卒を連れての騎士生活が続くとそれらのことはすっかり忘れ去られていくようだ。
ジェニアとヘルミネとコリンナ――三人とも二十代後半で一緒にいることが多く、昨晩も遅くまでリビングにいたらしい。その残滓が今もテーブルやソファの上に転がっている。安ワインの瓶を拾って籠に入れ、肉とキャベツのスープが入っていた皿などをシンクに重ねていく。
「こんなになるほど毎日話すことがあるなんて、やっぱり騎士って大変なのね」
食器を片付けていると、ジェニアが部屋から出てきた。
「おはよう、システィ」
「おはようございます」
ジェニアはシャツとズボンだけを着て、化粧道具を手にソファに座った。亜麻色の髪にはまだ寝ぐせがついており、クリームを撫でつけてブラシで梳かす。システィはいつも通り、作り置きのオレンジジュースを差し出す。
「すごいクマですよ」
「そうね……四時間しか寝ていないわね」
「そんな時間まで……やっぱりバフェットウルフの件で忙しかったんですか」
「え?」
ジェニアの重そうに垂れていた目が丸く開かれた。まるで生徒に想定外の質問をされた教師のようであった。
「あ、あー……そうね、それね。たしかにそうね。おおまかに言えば、そうね」
宙に視線をさまよわせた要領を得ない返事にシスティは首を傾げる。
「狼退治の編成などを考えていたのではないんですか」
「それはもちろんそうよ。でもね、そう、でもね、そんなことばかり考えていたら身が持たないのよね、そういう時にはお酒って必要なのよ。ええ」
「は、はぁ……」
どうしたのだろう。どんどん言い訳がましくなっていく小隊長の様子をうかがっていると、
「お酒、減らさなくっちゃね……」
と、悩ましくため息が出てくるので、ますます困惑するシスティであった。二十代の終わりが近づいてきているジェニアたちが酒とつまみを手にしていれば、バフェットウルフの話などは五分と経たずに消え去ってしまう。後の数時間はひたすら騎士生活という日照りの日々に対する愚痴のみで浪費されていくのだ。
その場限りの反省の間に身だしなみを整えたジェニアは営舎の玄関を開放した。慌ただしくしていた従卒たちが一斉にジェニアの前に集まった。
「おはようございます。ジェニア様、システィーユ様」
その時には先ほどまでの寝起きのジェニアはどこにもいない。凛々しい小隊長の顔で居並ぶ従卒たちにあいさつを返す。
「おはよう、諸君」
「おはようございます」
システィもあいさつを返す。男女二十人ほどのジェニアの従卒の脇に控えるようにしているシスティの四人の従卒に目を向ける。
あいさつが済むと従卒たちは解散して各々の仕事に戻った。そのうちの五人の女給がこちらに向かってくる。四人がジェニアの、一人がシスティの直接の世話係だ。
「おはようございます」
「おはようございます」
口々にあいさつを交わしながらリビング・ダイニングに朝食を運んでくる。ジェニアの女給は皆二十歳ほどの女性で、ジェニアが子供の頃から仕えているという。全員がシスティより年上で正直気後れする。
そんなシスティの世話係は、生まれた時から老婦のツェパの仕事であった。
「お嬢さま、朝食にございます」
「ありがとう」
ウィニードラゴンに襲われた混乱と、勲章授与の慌ただしさから解放されて、ようやく人並みの食事がとれると思った。ツェパもそれを察していたのか、システィの好きなクリームシチューを用意していた。
じゃがいも玉ねぎにんじんと鶏肉の入ったシチューをすすり、焼き立てのバゲットを食べる。本当はバゲットをすりおろして粗挽きの粉にしたものをシチューの中にどっさり落として食べるのが一番好きなのだが、行儀が悪いと叱られるので人前ではしないようにしている。
隣りではジェニアがサラダとミルク粥を食べながら侍従長のロレッタから書類と報告を受けている。その内容はやはり南の森でバフェット化した人食い狼のことであった。
「ライム小隊からの報告では、哨戒中に騎士マルコが襲われた以降、バフェットウルフを含めて狼は一頭も姿を見せておりません。昨年の調査では六つの群れが確認されていましたが、それらの縄張りを見ても、発見することはできませんでした」
「すべて、王の傘下に入って潜伏中ね。冬の狼害についてはどうだった」
「はい、お考え通り今年の冬は昨年に比べて激減しておりました。バフェットウルフは夏から秋にかけて精霊と同化して、冬の間に群れの統合を行ったものと思われます」
「群れの個体数はわかるかした」
「以前に調査した数の合計ならば、三十二頭になります。年をまたいでおりますので、ひとまわり大きくなっていると思われます」
「参ったわね……」食後のコーヒーを一口飲んで、亜麻色の髪の小隊長は椅子に深くもたれかかった。「質も量も向こうが上。おまけに小隊同士の連携を欠く状態」
「ライム小隊長はご自身でバフェットウルフを討ちたいと思っているでしょう」
「ウチに負けたくないっていう気持ちと、部下の仇を討ちたいという気持ち、どちらが勝っているのかしらね」
「騎士マルコは、一命をとりとめたようです」
「本当ですか」
それまでおとなしく話を聞いていたシスティだが、思わず聞き直していた。
不意に割り込まれた形になった隊長主従だったが、すぐに表情をやわらげた主を見て、ロレッタがうなずく。
「はい。人事不省であるのは変わりませんが、快復に向かっているとの知らせがありました」
「そうですか……」
ほっとするシスティを見てジェニアがくすりと笑う。
「そんなに気になっていたの。同い年の男の子が」
「え?」驚いて、すぐに恥ずかしくなった。「そ、そんなんじゃありません! ていうか、あんまりおぼえてないし……」
「それはそれでかわいそうね」
その場にいた全員が笑った。恥ずかしすぎて逃げたくなるほどに笑われた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます