第6話


 6


 昼間の雲一つない空は、夜になっても変わらなかった。おかげでたくさんの星と二つの月をよく見ることができた。


「明日は雨が降りそうね。それに、思いがけないことが起こりそう。波乱の相が出ているわ」

 白馬騎士団の営舎から夜空を見上げてセリカがつぶやいた。システィに割り当てられた一階の小さな部屋は戸窓から庭に出ることができる。そこを開け放しにしてシスティーユ・ラハーマとセリカ・ソーラの二人は夜会の席を設けていた。


「今日より波乱なことがあるの? もう一生分の波乱を使い切った気がするのに……」

 寝巻のパジャマ姿のシスティはほどいた髪ごとテーブルに突っ伏している。疲れ切っていた。ネイ・クリンガーという屠龍騎士と共に小隊に合流して、トマーヤに戻れたと思ったら大変な騒ぎがシスティを待っていたのだ。


「英雄の御帰還だ!」

 舞台劇のような口上が自分に向けられたものだと気づくまでにはずいぶんと時間がかかった。まだ昼間なのに大通りでは酒が振る舞われており、市民が酔って踊っていた。その時、システィは小隊長のジェニアとカミラに保護されて、まだ助かったという実感がないまま呆然とアーサーの背にまたがっていた。


「倒したのは私じゃない……」

 誰も彼もが興奮した目で見てくる中で、力のない返答は喧騒に吸い込まれていった。隣に並ぶカミラが心配げにタバード越しの背中を撫でてくれたのは覚えている。

 営舎に着いたらすぐに医務室に連れていかれて、そこで眠ってしまったらしい。気が付いたらベッドの上だった。

 外には夕日が差していて。ちょうどセリカが訪ねてきていた。

 全身が鉛のように重かったが、それ以上に十六歳の少女の身体は食事と入浴を欲していた。

 セリカがいたのはとてもありがたかった。営舎の個性のないチーズサラダと殺風景な浴場も、セリカという存在がひとつ加わるだけで薫風豊かな草原や天上の泉のように思えてくる。

 セリカははじめからシスティを思いやるつもりで来てくれたので、システィは遠慮なく今日のことを愚痴にして吐き出した。


「私もね、来るなら来いドラゴンとか思っていたの。でもね、だからってね、後ろから来ることないと思うの」

「うん」

「最初に槍が当たった時もね、やったっていうより、やっちゃったっていう気持ちが強かった」

「うん」

「なんでドラゴンの鳴き声ってあんなに頭にガンガン響くんだろう」

「うんうん」

「おまけに火まで吐くのよ。どうしたらいいのよあんなばけもの」

「うんうんうん」

「あ、その火の精霊捕まえたから、後であげるね」

「ほんと? ありがとう」

 しゃべっているうちにだんだんと生気が戻ってきて、湯船にとっぷりと身を沈めた時にはだいぶ回復した。

 ようやく世界に色彩が戻ってきた――そんな風に考えた直後、目に入ってきたのはハイエルフの大きな胸だった。

 システィは女だが、やはり目の前のそれは何度でも見てしまうほど立派なものだった。あろうことかそれは体積に比べて軽く、湯の上に浮かび出ようとしているのだ。

 常軌を逸している。

 騎士学校では年齢のこともあり、大きかったり小さかったりとあっても、十代の前半という範囲でのことだった。

 ジェニアの小隊に入ってからも、予想を超えるものはなかった――ちなみに一番大きいのはヘルミネだった――のだが、トマーヤに滞在した途端に、規格外のものを目の当たりにしてしまい、システィーユ・ラハーマは何かが根幹的に崩れ去っていくのを感じた。

 水面の双丘を見ているうちに、あまつさえ下から持ち上げたりするうちにようやく気分がリフレッシュした――のだが、精神面が満たされると今度は肉体の疲労が際立つようになり、自室に戻るやすぐテーブルに突っ伏していた。目の前にはランプの中で同化した火の精霊がポッドのお湯を沸かしている。

 セリカの頭上では二つの月が煌々と輝いている。第二代ライゼン国王バダムの頃に、その大きさの異なる二つの月の関係からこの大地もまた宇宙に無数にある星のうちの一つだという説が仮証された。


「それ以来、我々の大地と星をルノアと呼び、ルノアを公転する月をルノアムーン、ルノアムーンを公転する小さな月をレイスムーンと呼ぶようになった」

 天文の授業で最初に習ったことを思い出す。空の無数の星から占う占星術も学んだが、システィが覚えているのは星座や宿星のことまでで、セリカほど詳しい星詠みはできない。

 シュンシュンとポットから蒸気が噴き出る。

 テーブルに突っ伏しただらしない姿勢のままポットを取って注ぐ。副隊長のカミラがくれたハーブティーだ。かぐわしい芳香の効果に期待しながらすする。

 セリカも庭から戻ってカップを取った。夜着の厚めのローブを身に着けているが、やはり胸部の主張するところは大きい。


「フォルセナ様がおっしゃっていたわ。明日システィにトマーヤ市長から都市勲章が授与されるって」

「私じゃないって言ってるのに……」

 すねるように口をとがらせるシスティに、セリカはなにかを思い出したように身を乗り出して訊ねた。


「ねぇ、あなたたちの後ろにいたウィニードラゴンを曳いてきた人、あの人はやっぱり屠龍騎士なの?」

「そうよ、騎士クリンガー。本当はあの人がドラゴンをやっつけたのよ」

「うぅん、そうかぁ……」

「どうかしたの?」

「うぅん……なんでもないの」

 何か隠している――それはすぐにわかったが、特に聞き出そうとは思わなかった。初対面の頃のイメージと違ってセリカは話したいことはこちらが聞いていなくても話してしまう性格だ。つまり話したければそのうち話してくれるだろうと思ったのだ。


「そうよ、ネイ殿が倒したのに、いつの間にか私が倒したことになってる……おかしいわよ。ネイ殿もネイ殿で、私が一体を倒したって説明しちゃってるんだもの……」

「でも、システィが銃で撃って倒したのは本当でしょう?」

 セリカが浴場で聞いた愚痴の内容を復唱すると、さらにシスティは口をとがらせた。


「たしかにそうだけど……ドラゴンは死んでなかったわ。死んだふりをしていて、あのまま私が出ていったら、きっと死んでいたもの」

「でも、そのおかげで騎士クリンガーがドラゴンを倒すことができた。そういうことじゃないかしら」

 その通りかもしれない。しかし、やはり納得いかないのだ。あの時のシスティは生きて帰れることだけが頼みで、その為の方法をすべてネイに委ねていた。ネイがその気になれば自分の都合のいいようにジェニアに報告して、手柄を独占できたはずだ。


「それがまわりまわって私が三体全部倒したことになってる……これが悪事千里を走るってやつなのね……」

「べつに悪事じゃないけれど……噂を真に受けてという感じはするわね」

「こんなこと、母様が聞いたらなんて言うか……」

「厳しい方なの?」

「たぶん……バカにしてくる」

「えっ」

「母様は私をからかうのが生きがいなのよ。してもいないドラゴン退治で表彰されたなんて知ったら三日三晩笑い転げるに違いないわ」

 システィの母、ミマーム・ラハーマは元はといえば砂漠と荒野の国ナハーラームの騎士である。厳しい環境から騎士の養成所だった土地が邦国となり、多くの精鋭を各国に派遣している。ミマームもそんな騎士の一人で、遺伝的に日焼けした褐色の肌に性格も豪放で、人間的にはむしろネイやヘルミネのほうが近い。システィーユの白い肌と金色の髪、それにまじめな性格は父であるパトリアの徴税官ビルギット・ディケンズの血筋だ。

 ミマームは今はベイロス邦国に滞在しているが、遠くにいる娘が都市勲章を授与されたと聞いても、


「なんとねえ、あの子がねえ」

 などと言って、意に介さずにいるだろう。


「表彰式にはネイ殿も来るのかしら」

 もしかしたらシスティに手柄を譲ったのは、表立って表彰されることを嫌った為かもしれない。


「セリカ、白銀のシレーヌって知ってる?」

 赤い髪の屠龍騎士の記憶と共に思い出した名前を訪ねてみた。


「知っているけど……それがどうかしたの?」

「ネイ殿は、そのヒュージドラゴンを追いかけてきたって言っていたわ」

「そう……たしか、十年くらい前にライゼンのほうに現れたというわ。その頃はまだヘルジアードは邦国だったはず。シレーヌはそこで二つの山を破壊した。そこに住んでいた者は人だけではなく、ウィニードラゴンでさえ殺戮したと……」

 ヒュージドラゴンとウィニードラゴンはドリトン大陸に生きる人類が区別したドラゴンの分類であった。

 邦国の騎士団が討伐できるのなら、ウィニードラゴン。

 討伐できないのなら、ヒュージドラゴン。

 それは学術上は非常にあいまいな区分だったが、誰にでも通じるわかりやすさではあった。

 さらに解説するのならば、この区分は常に一体のドラゴンの個体に対して行われる。

 ウィニードラゴンは何体群れを成しても、一体ずつ倒せるのであれば、それはあくまでもウィニードラゴンの群れと称される。

 逆に言えば、ヒュージドラゴンとは一体きりでも邦国の騎士団をまるごと相手にできるほどの強力な存在になる。

 一般的な教育では、一体のドラゴンがヒュージドラゴンと呼ばれるようになるまでには三十年を要すると言われているが、これはライゼンが王国だった時代に一度だけ行われたドラゴン育成実験から定義されているだけのことであり、各邦国を脅かす個体ならば年齢や姿かたちに捉われることなくヒュージドラゴンと呼称される。なお、ドラゴン育成実験とはおよそ四百年前にライゼンで行われた実験だが、アランと名付けられて成長したドラゴンはやがて人間に好かれるよう巧妙に振る舞い、実験の成功を確信させて王国の式典に出席すると、おもむろに牙を剥いて人々に襲い掛かり、甚大な被害をもたらして逃走したという結果に終わっている。

 そのような事件もあってドラゴンは不倶戴天の敵とみなされて発見され次第、大陸全土を挙げて討伐作戦が行われるのだが、ヒュージドラゴンともなると現実に討伐が成功した例はない。そもそもヒュージドラゴンがドリトン大陸に現れることが稀なのである。ライゼン王国千年の歴史の中でたったの十二件。百年に一度現れるかどうかである。

 その中でかろうじて撃退できたという事例がたった二件である。残りは我が意のままに大陸を蹂躙して、どこかへ飛び失せたという記録だけが残る。ドリトン大陸の外海にはドラゴンたちの本来の土地があると言われているが、それを確認しようとして生きて帰ってきた者はいない。

 十二体のヒュージドラゴンの来襲の理由については、すべて個体ごとに異なった。これはドラゴンたちが統一された意志を持った集団や社会を持たずに各々の個体の裁量によってのみ行動しているという通説につながる。

 また、ウィニードラゴンを含めてドラゴンはほとんどが人語を理解しており、 ヒュージドラゴンに至っては何らかの方法を用いて人語を操る者もいた。

 圧倒的強者の立場から語りかけるドラゴンは、大陸の戦争に興味を持って現れたり、完全な気まぐれで騒乱を持ち込んだり、賢者を名乗って叡智を授けたりと、様々な目的や性格を有していた。

 そのなかで、白銀のシレーヌは二十年にわたって行われた帝国大戦の最中に現れた三体のうちの一体として、人々の記憶に新しい個体であった。

 正式な記録では、シレーヌが現れたのは八年前、まだ西側の邦国としてライゼン帝国に抵抗していたヘルジアード邦国のヘルモン山とメジェド山に現れ、騎士、市民の区別なく数百人を殺戮して去っていった。対話を試みる間もなくヘルジアードから東側へ飛び立ったが、城砦山脈から東では発見されなかった為、詳細な目的は不明のままとなった。この事件で同様したヘルジアードは後にライゼン帝国に攻め込まれ、併合されるきっかけとなった為、帝国がなんらかの方法でシレーヌにヘルジアードを攻撃させたのでないかという憶測があるほど、シレーヌについては謎だらけであった。

 白銀というあだ名は美しい光沢を持つ白い全身と、火と金の精霊を行使する姿から名付けられた。


「ネイ殿はヘルジアードの生まれで、シレーヌを追ってきたって言っていたわ」

「もしかして、ヒュージドラゴンを倒すのが目的……?」

「そんなまさか」

 さすがにシスティは笑った。


「たしかにネイ殿はウィニードラゴンを三体、あっという間に倒したわよ。でもヒュージドラゴンはまず大きさから違うのよ。お城から大砲でも持ってこないとどうしようもないわ」

「でも、他にドラゴンを追うなんて理由は考えられないわ」

「セリカでも思いつかない?」

「うぅん……ドラゴンを観察しようという研究者はたしかにいるけど、そもそもヒュージドラゴンが現れるかなんてのも百年に一度くらいよ」

「でも、その百年に一度が、二十年で三回起きてる」

 その反論は根拠もなく発したものだが、セリカは沈鬱な表情をしてうなずいていた。


「そうなのよ。ライゼン王国が帝政戦争を起こしてから、三体もヒュージドラゴンが現れている。それにね、たぶんだけど、ウィニードラゴンも増えているの。これはたぶん、偶然じゃない」

「戦争がドラゴンが増やすということ?」

 今度ははっきりとはうなずかなかった。すこし目を伏せて火精が躍るランプを手に取った。

 それを不安そうな表情で見ていたシスティに、セリカは慌てて笑い返した。


「ごめんね。よくわからない話になっちゃった」

「う、うん……」

「そうそう、屠龍騎士さんの話よね。その人がどうして白銀のシレーヌを追いかけてきたか」

「うん、まあ……騎士ネイ・クリンガーだよ」

「そう、騎士クリンガーはヘルジアードの人でしょう。そしてシレーヌもヘルジアードに現れたドラゴンよ。それなら、やっぱり何か理由があって、シレーヌを追いかけてきたんじゃないかしら」

「やっぱり、倒すの?」

「本人はそのつもりかもしれない」

 ぐっとシスティは顎を引いた。やはりにわかには信じられない。一国にも匹敵する力を持つヒュージドラゴンをたった一人の屠龍騎士が討つ。それは子どもに読み聞かせる絵本のような話だ。

 しかし、それを成し遂げた者は掛け値なしに英雄と認められるだろう。システィが今日受けた称賛など比較にならない。


「そういう志を持っているのなら、ウィニードラゴンを倒した勲章なんて石ころみたいなものなのかもね」

 同じ騎士なのに、こんなにも価値観は違うものなのか――そう思ってベッドに寝転がったと同時に、部屋のドアがノックされた。


「システィーユ、まだ起きているの」

 ドアを開けたのは小隊長のジェニア・フォルセナであった。亜麻色のボブカットから心配げに眉をひそませて注意する。


「明日は勲章授与の式典があるのだから、はやく寝なさい。ソーラ博士ももう遅いですから、お送りします」

「はい、わかりました」

「あぁ、ソーラ博士。くれぐれもお静かに。フェマに見つかると大変です」

「は、はい」

「幸い、まだ市庁舎への使いから戻ってきていないようですが……どこかで遊んでいるのかしら」

 表情の半分に苦みを混ぜてジェニアとセリカは部屋を出ていった。

 システィはそれを見送って、しばらくベッドに座り、寝転んでいた。


「屠龍騎士かぁ……明日になればまた会えるかしら」

 赤い髪の騎士の姿を思い出す。会って、勲章について抗議をしても意味があるとは思えない。しかし物事が他人の都合の良いように曲げられているということは薄気味悪いことなので、問い詰めずにはいられない。


「あ、わすれてた」

 寝転がったシスティの視線の先では、セリカに渡すはずだった火精が楽しそうに踊っていた。

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