第622話 「さよなら」の意味を知らない男と躊躇う女(前編)
シドニーには、カフェ文化がある。
それぞれに豆をセレクトしての、自家焙煎。
コンセプトも異なり、2人が待ち合わせしたカフェは、ちょうど日本人向けの内装とメニューだ。
朝8時から席についていた
「何ですか?」
黒を基調とした、シックな雰囲気とは真逆の、いかにも遊んでいそうな服装と態度だ。
断りもなく対面に座り、馴れ馴れしく話しかけてくる。
「俺さ、シンって言うんだ! 君、大学生かな? 手持ち無沙汰みたいで、気になってさぁ……。分かるよー! いきなり外国に来ると、困っちゃうよね? その点、俺は3年いるから――」
現地で
そう思った奈都子は、離れた場所で様子を
「なーなー? 今日は、俺に任せてくれ! 現地人ならではの楽しみ方が、あるんだよ! ……これ、美味しそー! 少しもらっても――」
「刀剣類保管局の小鳥遊です。お話をしたいのなら、最寄りの警察署で伺います」
長い紐がついた、縦に二つ折りの手帳。
上に本人の顔写真と、下の部分に張り付いている “POLICE” と読める文字を含めた、金色のエムブレムが、チャラ男を威嚇する。
奈都子が警察官だと分かった男は、げっ! と叫びつつ、脱兎のごとく、店外へ逃げ出す。
少なくとも、逮捕される心当たりがあるようだ。
カフェの人間に注目される中、警察手帳をパタンと閉じた奈都子は、
「すみません、遅れました! ……何か、あったんですか?」
入れ違いのように、私服の
事情が分からず、その場の雰囲気に、目を白黒させている。
片手で制した奈都子は、席にあるQRコードを読み込み、スマホの画面で支払いつつも、チップの項目で10A$(オーストラリア・ドル)に設定。
オーストラリアでは、基本的にチップを出さない。
今回は、騒がせた迷惑料だ。
残っていたコーヒーを飲み干し、奈都子は脇のアウターとバッグを抱えた。
「行きましょう! 別の場所で、説明しますから……」
「待って、
「いい加減にして! 私たちは、遊びに来ているわけじゃないのよ!?」
――別のカフェ
改めて向き合った小鳥遊奈都子は、平謝りの綿貫雄司に閉口した。
「あの……。もう、いいですから……。海外で日本人が多い場所なら、よくあることですよ?」
「いえ! 自分がもっと早く来ていれば、小鳥遊さんを困らせなかったのに――」
そもそも、待ち合わせが午前9時で、私は朝一にカフェ。
あなたが来たのも、十分に早かったと思う。
緊張がなくなったことで、オーストラリアの寒さを感じる。
脱いだアウターは、冬のものだ。
自分でも何を言っているのか、分かっていない感じ。
そう判断した奈都子は、相手を刺激しないように、声をかける。
「じゃあ、ここの支払いを頼めますか? せっかくの待ち合わせで、ずっと謝罪をされても……」
正気に戻った雄司は、ようやく会話をする。
「はい、分かりました! な、何でしたら、今日の支払いは、俺のほうで――」
「い、いえ! それは、流石に……。お気持ちだけ、ちょうだいします」
◇ ◇ ◇
向き合っている小鳥遊奈都子は、困った表情。
上品に眉を
考えてみれば、部活の経験はあれど、女子と向き合ったことは初めて。
同じ警察官だが、相手は
どうやら、警察官僚のように、選ばれた存在。
自分の前にあるカップで、ぐいっと飲めば、コーヒーの香りと味が駆け抜けた。
長い黒髪は、センターパートにした前髪と、ルーズに仕上げた、低めのお団子によるアップ。
ゆるやかで、癒しの雰囲気とよく似合っている。
「き、綺麗ですね! その、髪型が……」
「ありがとうございます」
定型の返事だが、奈都子に嫌みはなく、拒絶していない感じ。
冬用のニットワンピースだが、程よい緩さ。
赤が入ったブラウンで長袖、足首まで隠れるスカートの長さ。
大人っぽい奈都子と、ベストマッチ。
アウターは、ショートボリュームのダウンジャケット。
黄色を帯びた白である、アイボリー色だ。
コンパクトに胴体と両手を覆っていて、カジュアル感が強い。
少女の優しさと、大人の色気が合わさった、何とも言えない魅力がある。
年齢はちょうど女子大生で、この遠征がなければ、自分には話す機会もなかっただろう。
そう思った綿貫雄司は、心の中で嘆息した。
わざわざ、現地で買い揃えたとは、思えない。
それでいながら、これだけの着こなし。
明らかに、素材がいいんだ。
いっぽう、自分はファッションに無頓着で、適当な組み合わせ。
釣り合わないことは、言われるまでもない……。
「あの……。大丈夫ですか?」
顔を上げたら、奈都子と目が合った。
「……は、はい! 大丈夫です。そろそろ、出ましょうか?」
――ダーリング・ハーバー
動物園のコアラや、水族館のエイを見ながら、ひたすらに歩く。
海沿いのレストランで、昼食。
有名な観光地らしく、ボリュームはあるが、繊細な味ではない。
「疲れていませんか?」
「はい、大丈夫です……。本場で見るコアラは、やっぱり違いますね!」
よく分からないポイントに感動しているが、小鳥遊奈都子は、機嫌が良い。
椅子に座ったまま、両手で耳を作った。
コアラの真似らしい。
ランチタイムの混雑でも、
テーブルを挟み、対面で座っている綿貫雄司は、次の予定に言及する。
「可愛かったですね。カンガルーも、迫力がありました……。えっと、見て回るところですけど、ショッピングセンターで時間を潰して、夜にカジノへ行きませんか?」
おお! という顔になった奈都子は、思わず手を叩く。
「そういえば、カジノもありますね! 考えていませんでした。……ええ。ぜひ、行きましょう!」
綿貫雄司は、思う。
警視庁のキャリアに逆らうのは、論外だ。
目の前にいる小鳥遊奈都子と結ばれる未来も、自分の願い。
このまま、恋愛中のニュースで埋め尽くせば、自分が否定しないだけで、彼女との結婚まで漕ぎ着けられる。
それでも――
「小鳥遊さん。あの……」
「はい?」
雄司の問いかけに、会った直後よりも優しい表情をした奈都子が、微笑んだ。
御手洗護から見せられた、日本で発売されているはずの週刊誌。
その話題を口にしかけた雄司は、どうしても言えない。
キャリアを敵に回せない……というのは、言い訳だ。
警察官として正しい対応で、それを崩すだけの理由もなし。
いっぽう、小鳥遊奈都子とは、この南極への遠征で、直前に知り合っただけ。
公式発表で、もうすぐ警察から離脱する、とあった。
奈都子は、警視庁に来ると、言っていない。
もし……。
もし、彼女が桜技流と一緒に、警察を後にしたら……。
二度と、会えない。
「そういえば……。壮行式で登場した
探りを入れるため、共通の話題。
けれども、そのキーワードは、奈都子にとっての地雷だ。
「……
雰囲気を硬くした彼女に、綿貫雄司は失言だった、と悟る。
「えっと……。す、すみません! 初めて、お会いしたものですから!!」
座ったままで、頭を下げた雄司。
周囲の席から注目を浴びたことで、奈都子は我に返った。
優しい口調に戻って、話しかける。
「綿貫さん? 私、お化粧を直してきます。アウターとバッグを見てくれませんか? すぐに、戻るので……」
「はい……」
雄司の返事を聞いた後で、奈都子は、女子トイレへ向かった。
やらかした綿貫雄司は、背もたれに体を預けて、溜息を吐いた。
防寒着とバッグを残したのは、トイレに行くと言って、そのまま帰るのでは? と疑わせないためか……。
「お待たせしました……。先ほどは、申し訳ありません。綿貫さんを責めるつもりはなかったものの、無神経でしたね」
戻ってきた奈都子は、落ち着いたようだ。
向かいの椅子に座った直後に、頭を下げた。
否定するように片手を振った雄司は、すぐに応じる。
「頭を上げてください! 俺のほうこそ、小鳥遊さんを傷つけてしまって……」
良い雰囲気は、全てパー。
すっかり気落ちした雄司が、デートを終わろう、と思った矢先に――
「綿貫さん……」
奈都子の声で、雄司は相手の顔を見た。
グリーン系の瞳は、真剣な輝きだ。
「綿貫さんはどうして、私を誘ったんですか?」
見つめ合ったまま、何も答えられない雄司。
奈都子は視線を外さずに、ゆっくりと言葉を
「あなたにとって大事なものは、何ですか?」
急に言われても、返答に困る。
同年代の女と縁がなかった雄司は、思考停止の状態だ。
「いいですか? 今日の私は、最後まで付き合います。その間に、よく考えてください。格好をつけようとか、私を楽しませることより……。最後に、もう一度だけ、同じ質問をします」
説明した奈都子は、自分の想いを付け足す。
「南極で救助要請を知った時に、私は1人で向かい、そのまま死ぬつもりでした。だけど、あなたが来てくれたから、ギリギリで気力を取り戻せた……。ありがとう」
言葉を失っている雄司に、奈都子はジッと待つ。
――30分後
「澪ちゃん。早く、行かないとぉ……グエッ」
「
「首……首が締まっているから」
「保護対象なの! 人懐っこいの!! 動物は、守ってあげないと!」
「わ、私も……。人間という、動物だよ……。愛護して……」
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