15話  高嶺の花の同級生の家で魔法の呪文を唱えた

「——えっ!?」 


 調度品が備わった空間にそぐわぬ素っ頓狂な俺の声が如月家のリビングに響き渡った。


 目の前にある壁掛け時計の短針が既に9を過ぎている。


 まさか、と思いスマートフォンを手に取ってみるが、デジタル表記が示す時間は揺らぐことのない事実を俺に突きつけてきた。


 何故こうなった。

 

 確か到着した後、如月が飲み物を入れてくれると言っていたような気がする。何もせずご相伴にあずかるのは悪いのでも何か手伝おうとしたのだが、手伝うことは何もない旨を告げられてしまった。今までの付き合いからこうなってしまうと如月は頑なに意見を変えようとしないことを知っている。仕方なく俺は椅子に腰掛けたまま、特に意味もなく壁を眺めていた。


 そうしているうちに、まぶたが重くなってきたので、少し目を休めたところまでは覚えている。


 ——こうなると認めざるを得ないだろう。


 つまり、俺は寝てしまったらしい。

 

 自戒の念と共に、熱を持った酸味がとめどなく溢れ、胸中に広がる。


 最近はほとんど無いが以前は学校の授業中に寝てしまう、なんてことがしばしばあった。


 だが他所の家で、しかも異性の家で船を漕いでしまうなどあってはならないことだろうに。


「あぁ……」


 ——やってしまった。 


 その言葉を繰り返しながら俺が目を閉じた時だった。


 どこからかすぅすぅと音が聞こえてきた。


 それはゆりかごを揺らすかのようにごく小さい音で、静かにしていないと存在すら気づかなかっただろう。


 そしてその音の発生源は俺の隣にあるようだ。


 恐る恐る右に目を向けると机に突っ伏す人影があった。


 俺は反射的に席から離れそうになるのをぐっと堪えた。


 如月が安らかに寝ている。


 精緻な顔つきはそのままで、幸せそうに伏せられた瞳が一本一本が芸術品のようなまつ毛を際立たせている。


 落ち着け。


 俺は速度を増す鼓動を鎮めるべく理由をつけていく。


 まず、この状況で驚くのは至極当然のことだ。


 一体誰が起きた直後に隣に如月がいると思うだろうか、いや思わない。ましてや他に席があるのだ。


 そう。だから普通、わざわざ如月が隣の席をチョイスするとは思えない。


 そこから推察するに如月はよっぽど疲れていたのだろう。席を選ぶ余裕、あるいはそこまで頭が回らずに座ってしまったに違いない。


 そういうことにしておこう。


 ならばこちらがとやかく言う資格はない。先に寝落ちしてしまったのは俺であって、疲れてる時の抗えない心地も身を以て体験している。


 それよりも他に気にすべきことがあるだろう。 


「はぁ……」

 

 思わず深いため息がついて出た。


 カーテンを閉め忘れた窓から見える景色は深い闇。人が歩いている様子もなく、完全に夜の世界だ。


 つまり、この時間に電話をするのは常識を疑われるわけで、俺はもう三木に連絡するわけにはいかなくなった、ということになる。


「さて、どうしようか……」


 いずれにせよ、このままではマズイだろう。


 クーラーの効いた部屋が名残惜しいが俺は荷物をまとめ、如月を起こさぬよう忍足で玄関へと向かった。


 流石に異性の家(しかも親ナシ)に一晩も厄介になるわけにはいかない。


 そう思っての行動だったのだが、靴を履いてから俺はようやく気づく。


「……鍵がないと閉められないんだったな」


 外に出ることは簡単だが、ここは一般家庭だ。控えめに言っても読者モデル顔負けの女の子が一人暮らしをしているとはいえ、オートロックが備え付けられているようには見えない。


 そして当然のことだが、俺は如月家の鍵を所持していないのだ。無断で外出でもしようものなら、玄関は開放されたままになる。そこから犯罪者の侵入を許したら俺はどう責任を負えばいいのだろう。如月に被害でもあったらそれこそ死んで詫びるしかない。


 再度家に上がり直し大人しくリビングに戻ろうと廊下を歩き始める。その直後だった。


「柳沢さん!」


 バタバタと足音が聞こえたかと思うとリビングに続く扉から如月が勢いよく飛び出してきた。

 そして俺の姿を視認するや否や安堵したように表情を緩めた。


「よかったです、もう行ってしまったかと思いました」


 そこまで慌てなくともいいだろうに。


「俺はこの家の鍵、持ってないからな」

「あっ……そういえばそうでした」


 恥ずかしそうに顔を俯かせる如月に何故かこちらまで妙な気分になる。


「ま、まあ、俺も今気づいたから……」


 如月を真正面から見ずに俺はそう告げた。


 すると、「そういえば」と前置きしてから突然如月が頭を下げてきた。

 

「先ほどはすみません。後で起こそうと思ったのですが、その、あまりにも柳沢さんが気持ちよさそうに寝ていたので……」

「謝ることはない。勝手に寝た俺が悪い。でも丁度よかった。如月が起きたことだし俺はそろそろお暇させてもらうよ」

「あの——そのことなのですが」

「ん?」

「部屋は余っているのでよかったらこのまま泊まって行きませんか?」


 ——如月の家に泊まる?


 思いがけない言葉に俺は言葉の意味を反芻する。


 だが、その内容は倫理観がイエロー信号を発するもので変わりはなかった。


「——いや、さすがに如月に悪い」

「ですがもう夜も遅いですし、元はといえば柳沢さんを起こさなかった私のせいです。お詫びも兼ねて泊まっていってください。私は構いませんから」


 お詫びと言われると俺の鋼の心もぐらついてしまう。

 こういう場面ではちょっとした常套句なのかもしれないが、如月は本当に申し訳ないと思っているように見えた。

 

 しかしそれでも俺の中で色々なものがせめぎ合い、踏ん切りがつかない。


 如月は気づいていないのだ。

 百歩譲って会話したり、歩いているところを他人に見られるのはまだいい。


 だが、家を出入りしているなんて知られたら一大スキャンダルもいいところだ。


 如月に迷惑がかかるくらいなら俺は三木に連絡がつくまでの一晩くらい外気の中で過ごそう。


 そう考えがまとまってきたところにこの夏一番であろう決定打が下された。


「寧ろ心配なので泊まって欲しいです」


 透き通るような声が脳に反響する。

 

 黙ってしまった俺に如月は言葉を続ける。


「不安ならシェアハウスみたいなものだと思ってください」


 ぐらり、と俺の中で何かが揺らいだ。


 ……考えてみれば別に犯罪でもなんでもないのだ。

 むしろ行くアテなしで野宿をしている方が警察のご厄介になるかもしれない。


 それに、一応明後日には親が帰ってくる。期間はたった2日。いや、今から明後日の午前中までなので正確には40時間もないだろう。


「……すみません、お世話になります」

「はい。それではまず——夕食にしましょうか」


 如月が天使のような笑みを俺に向ける。


 それはひとつまみの好奇心と茶目っ気をブレンドしたもののようで、自然と俺の心も軽くなる。


「そうだな」


 こういうときは、あれだ。


 ——まあ、なんとかなるだろう。


 魔法の呪文を唱えてから俺はリビングへ戻る如月の背を追った。

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