10話 浜辺で一歩踏み出そうとした

 ブチィッという鈍い音が更衣室に反響した。


「あっ……」


 隣にいた三木が乾いた声を上げる。どこか哀愁の漂うトーンに何事か、と目をやると三木の手に握られているゴーグル、そのゴムの部分が無残にも千切れていた。


 海へ入るのにゴーグルがないと辛いだろう。


「……終わった」


 大袈裟に肩を落とし、三木が遠い目をする。


 だけど周りはロッカーの他にコンクリートの壁しかない。


 演技と分かっているが、流石に少しかわいそうになってくる。


「いや、諦めるのはまだ早い。ちょっと貸してくれ」


 俺は三木から受け取ると千切れた部分を縛る。


 これでどうにかなるだろうか。


「着けてみてくれ」


 放って渡す。


「さっすがヤナギ」


 即行で回復した三木が元気よく、かつ髪の毛を巻き込まないよう丁寧にゴーグルを装着する。


 水泳帽を被っていれば慎重にやらないで済むのだろうが、海に来てまでつけている人は見たことがない。

 

 希少度からすると海でスクール水着を着ている人くらい珍しいんじゃないだろうか。


「おおっ!」


 無事ゴーグルが額のあたりに収まった。


 これでもう大丈夫。


 よかったな、と言おうと顔を見合わせた次の瞬間——バチン、とゴムが弾け飛んだ。


 頭部から離れたゴーグルは落下。


 それだけにとどまらず、留め具のプラスチックは弾丸と化し壁に激突、ついでに破片が飛ぶのを俺は見てしまった。


「……買いに行こうか」

「……それしかないな」





 大体ほとんど使わないんだし何もこの時に壊れなくても、という三木の嘆きを聞き流しながらビーチへの道を戻る。


 着替えを持ったまま買い物に行く趣味はない。

 それに少しここを離れると言付けくらいしないと不義理だろう、ということになったのだ。


 だが、突如俺の足が軋むような動きをした。


 向かう方向に遠くからでもわかる二つの影がある。


 一つは背丈が低く、上下一体型の水着。

 もう一つは見目麗しい水着。


 この瞬間、俺は目を青い空に向けた。


 見てはいけない気がする。


 というより見ていられない。


 こみ上げてくる酸っぱさを堪えながら、視線を如月の奥、見当外れの点にやる。


 焦点をずらすことで視界に納めつつも違和感のない目線にする、という高等テクニックだ。


 これで急場は凌げる。


 サングラスをかけた人やいい具合に肌の焼けた人、水を滴らせる人の間を縫ってテントのある場所にたどり着くと、そこでは顔を真っ赤にして泉が浮き輪に空気を入れていた。


 すると何の躊躇いもなく三木が泉に近づいていく。


「変わろうか」

「……何か先に言うセリフない?」

「うーん、大変そうだね?」

「怒るよ」

「ジョーダンジョーダン。水着、似合ってるよ。ほら、代わるから」

「うん」


 流れるような手つきで三木は浮き輪を手に取るとさっきまで泉が息を入れていた場所に口をつけた。


 やっぱ人気者は違うな。


 一体こいつはどういう神経をしているんだろうか。俺にはそんなことをする度胸はない。


 ——でも、俺も言ったほうがいいのかもしれない。


 水着を褒めることくらい。


 これは朝会ったら挨拶をする、みたいな社交辞令的なものであって別に変なものではないのだと思う。多分。


 あまり不躾に見るのも失礼だろう。

 俺は意を決してチラッと如月の水着を見る。


 ——刺激が強い。


 網膜に焼きつく前に俺は目を離す。


 稚拙な表現になってしまうが、似合っている。水着姿は如月の魅力を120%、いや、むしろ新たな一面まで引き出してすらいる。

 

 炎天下のせいもあるのだろう。あまりの情報量の多さに頭がクラクラしてしまう。


 それでも褒めるくらいは何とかやってみせよう、と首から下になるべく目をやらないようにしながら俺は言葉を絞り出す。


「……如月」

「はい」


 何でしょう、と無垢な瞳が俺に向けられる。


 話しかけた以上後には引けない。

 さりげなく、控えめに。でも失礼のないように褒めよう。


 口を開こうとしたその時だった。


「ヤナギ。浮き輪穴開いてたから泉も買いに行くってさ」


 絶妙なタイミングで三木が話しかけてきた。


「二人共、行く?」


 ひょっこり現れた泉も聞いてくる。


「あー、今、それを如月に聞こうとしていたところだったんだ。どうだ?」


 とっさについた言葉は不自然ではなかっただろうか。


 少し間を置いてから如月が頷く。


「そうですね。折角なので私も行きます。海辺の店がどんなものなのか見てみたいですし」


 振り絞った決意がドロドロと溶けていく。


 どうせ俺のことだ。どうせ邪魔がなくとも日和っていたに違いない。それこそ三木が褒めた時に便乗して言えばよかったのだ。


 世渡り上手な人はすごいな、と思っていると俺を呼ぶ声が聞こえる。


 見ると既に三人は少し先を歩いている。


 慌てて俺もじりじりと照りつける日差しの中、追いかける。


 でも、その足は妙に重い。


 砂浜に足を取られているせいか、あるいは軽い熱中症かもしれないな。後で水分を補給しておこう。


 なんて、そんなことを考えているが要は自分が不甲斐ないからだ。それに最もらしい理屈をつけるなんて、我ながらみっともないな。


 でも分かってはいるけど、やってしまうのだ。


 俺は一歩踏み出せない、そういう人間なのだろう。

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