2話 自習室に行った

 ——ガラガラと扉がけたたましい音を立てた。


 迷惑になりやしないだろうか。


 そんな考えが過ぎり俺は部屋の様子を伺う。


 しかし心配は杞憂だったようだ。


 しん、と静まり返った部屋にひっきりなしにペンやページをめくる音。


 自習室の住人はこちらを見向きもせず、ただひたすらに机に向かって集中している。 


 ……気圧されてはいけない。どこか空いてる席を探そう。


 小さく首を振ってから張り詰めた空気の中を俺は進む。


 下のクラスにいた泉が俺たちのクラスに来た。


 正直危機感を覚えなかった、と言えば嘘になるだろう。


 学生の本分は勉強であるからして俺も少しやらなければならない。


 クラス替えは、だらけ気味の生徒を奮起させるためにも行っている。

 まんまと策にはまったようでシャクだけど今回は乗っておくことにしよう。自分のためになることには違いない。


 でも、こうして実際に空気感を肌で感じるとなんだか少し帰りたくなってくる。


 まさかここまで居心地の悪い空間だとはな。


 部屋の壁に取り付けられた本棚には赤本が所狭しと並んでいて、圧迫感を覚えさせられる。机は入って手前には長机が並んでいたが奥に行くに従って仕切りのある代物へと切り替わっていた。そしてここから見える限りほぼ全てが埋まっている。


 まだ春休みだというのに皆熱心だ。


 これだけで気圧されそうになっている自分がいる。


 ゴクリ、と唾を飲み奥の方に進む。


 さて、どこに座ろうか。


 歩きながらざっと眺めた感じ、先ほどは見えていなかった部分、ついたてのある机はちらほらではあるが席が空いている。


 だが気がつけば俺の両眼はある一点を注視していた。


 如月がすらっとした姿勢で学校指定の参考書を広げた机に向かっている。


 ……今日はバイトじゃなかったのか。

 

 そう思いながら、俺の足が勝手に動く。

 たまたまではあるが隣の席が空いていたのだ。


 ……全く知らない人の隣にいるよりは気が楽だからだよな。


 そう理屈づけつつ俺は如月の隣の席にある椅子を引いた。


 すると如月が顔を上げ、チラリとこちらに目をやるとその長いまつ毛をしばたかせた。


 集中を途切れさせてしまっただろうか。


 迷惑だっただかもしれない、と反省しつつも、腰掛けてからすぐ離れるのもそれはそれで失礼だろうと俺は思い直す。


 せめて邪魔にならないよう、と俺は春休みの課題を取り出すと仕切りの内側に顔を埋めた。





 ……まさかここまでとはな。


 廊下の薄暗い蛍光灯が俺を照らす。


 意気揚々と数学の参考書を広げてみたものの、まさかほとんど解けないとは思わなかった。


「……はぁ」


 気分は落下一筋のジェットコースターだ。

 

 もしかすると自習室の環境は俺に合っていないのかもしれない。


 もう帰ってしまおうか。


 そう考えて自習室に道具を取りに戻ろうとした時だった。


「柳沢さん」 


 後ろから俺の名前を呼ぶ声がした。


 振り向くと俺の後ろに如月がいる。水分補給をしようと外に出たタイミングだったのだろう。片手にはステンレス製と思われる小さな水筒を手にしている。


「お疲れ様です」


 定型文じみたセリフに俺は首を小さく振る。


「俺はまだ来たばかりだから。寧ろ如月の方が疲れてるんじゃないのか?」

「私は全然大丈夫です。いつものことですから。それより——大丈夫ですか?」

「何が?」

「いえ、その……少し顔が暗い気がしたので」

「あー、そうか……」


 顔に出てしまっていたらしい。

 ……情けないな。


 自分から足を運んでおいて既に帰宅する方向に気持ちが傾いてる。しかも習った範囲も解けない。


 俺は今まで何をやってきたんだろう。


 目頭が熱くなってきた。


 いけない。


 そう思った直後、如月がスッと右手を差し出してきた。


「どうぞ」


 白く、細長い指。

 その先に乗っている袋の中には小さな飴がある。


 如月の手に触れないよう、俺はそっとそれを受け取りそのパッケージを見た。


 両端にあるギザギザから切れる袋。

 その表面には「ブドウ糖入り」と書かれている。


 ——もしかして、これは。


「あまりにも美味しかったので食べ終わった後、また買っちゃいました。いい気分転換になりますよ。あの参考書、結構難しいですから」

「……見てたのか」


 この調子だと俺が解けなかったところも見られていたのだろう。

 ああ。穴があったら入りたい。


「すっ、すみません。悪気はなかったんです。でも、本当にあの参考書は難しいですから。それこそ基礎は出来てても解き方を知らないと解けないような、そういう問題なんです。だからこれから覚えて出来るようになればいいんですよ」


 簡単に言うけれどそれが出来たら苦労してないと思う。


 ……でも、如月と話したせいだろうか。

 少し元気が出たような気がする。


「そうだな。これから頑張るよ」

「その意気です」


 如月はそう言うと笑みを浮かべた。

 だがすぐに何やら思いついた顔をすると神妙な面持ちで俺にこんなことを言ってきた。


「……そういえばこの前の期末テストの最後の問題、数値は変わっていましたけどあの参考書からの出題でしたね」

「え?」

「しかも二年生からは入試も近いから出す割合を増やすとか」

「……そう、なのか……」


 急に不安になってきた。


「本腰入れないとなぁ……」


 そう言いつつも俺は現実逃避をしようと運動部が駆けずり回っているであろう窓の外を見ようとする。

 ところが、


「——よかったら、その、将棋を教えてもらったお礼に今日、解き方教えましょうか?」


 やけに食い気味に如月がそんなことを言ってきた。


 申し出はありがたい。

 でも、これ以上厄介になるわけにはいかない。


「いや、大丈夫だ。それにあれは、ほとんど如月が一人で学んだみたいなものだし」

「違いますよ。あれは柳沢さんがずっと付き合っていてくれたからです。それにこれは私にとっても色々メリットがあります」

「どんなメリットがあるんだ?」

「教えた方が覚えられますから」

「他には?」

「……秘密です」


 らしくない回答をごまかすように如月は口元を、もにょもにょとさせた。


 まあ、向こうにもメリットがあるのならお願いしてもいいのかもしれない。ずっと、というわけでもないのだから。


 気がつけば俺は「お願いします」と口にしていた。

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