9話 酸味

 ドボン、と水面に人の落ちる音がした。


 黒ずんだ木の板の上でご愁傷様です、と心の中で手を合わせてから俺は自分が挑むべき障害を見据える。


 さて、いよいよ今回の目玉、水上アスレチックのお出ましなのだが、ここに来て俺は若干挑戦しようと思ったことを後悔している。


 内容は今乗っている木の板からゴールまで水上に浮かぶ板を渡り歩いていくという非常にシンプルなものだ。ケンケンパとか横断歩道の白いところだけを歩くみたいな感じだと思えばいいだろう。もちろん横断歩道の白線に比べて板同士は離れているし、落ちたら濡れるというペナルティーもあるのは事前にわかっていたのでさほど問題ではなかった。


 だが、こうして実際に来てみてわかった。

 ここのアスレチックは予想以上に足場が不安定なのだ。


 今このスタート地点でも少し体重を移動しただけで簡単に板はゆらゆらと揺れている。おまけに先行していたクラスメイトが落ちた衝撃の余波すらこちらに伝わってくるのだ。


 とはいえ、そんなものはバランスさえ取ればなんとかなる。

 本当の恐怖はその先にある。

 

 波を描く水面。そこはもはや池だ。

 どう考えてもお世辞にも綺麗とは言えない世界で、藻が生えた水槽のような薄暗い色がついている。


 てっきりプールのような場所を想像していたが、屋外で敷地面積が広いと水の循環は難しいのだろう、ということは分かる。分かるけど、少なくとも飲める水でないことは確かなわけで、落下したら悲惨な結果が想像できてしまう。


 だが、その時にはもう引き返せない位置まで来てしまっていて、こうなったら絶対に落ちるわけにはいかない、と決意を固めるしかなかった。


 現在如月、三木、泉、の順に一列でコースを進んでおり、先の二人は既にところどころにある比較的大きな板の上で待ってくれている。

 待ち時間を作ってしまい申し訳ないので早く合流したいのだが、他の人が渡っているタイミングで行くとペースが合わずに途中で止まることになるかもしれない。小さい板の上で待機すると自分の体重で沈む、ことはないにしても靴が濡れるのは十分にあり得る。


 よってここでは距離を空けてからスタートするのが定石なのだ。


 と、丁度そのとき、間を空けておいてよかった、と思える事件が起きた。


「あっ」


 板の端を踏んでしまったのだろう。泉が小さな声を上げた。そのまま走りきればいいのだろうが時は既に遅し。バランスを崩した泉は横転、水柱を立たせて沈んだ。


「ぷはっ」


 すぐに顔を現した泉は這い出ようとするが板は揺れる。おまけに服が水を吸ってしまい思うように動けなそうだ。


 何度かトライしていた泉だったが、しばらくするとおとなしくなった。


「……一真、助けて」


 見かねた三木が手を差し伸べようとするが、なにせ水上だ。


「うおっと」


 泉の近くへ行こうとすると板の反対側が持ち上がってしまう。


「ストップ、ストップ! 泉、ストーップ!」


 バランスを崩しかけた三木が大声で泉に呼びかける。

 いくら三木のいる板が他より少し大きいとはいえ、畳一畳ほどの面積しかない。

 まあ、自分まで落ちてしまってはたまったものではないのだろう。


「泉、先に泳いで行っててくれないかな。もっと広いところでやろう」

「……はい」


 こうして幼なじみ二人は仲良く別のところへと移動して行った。


 昔からいるとあんなに仲がよくなるものなのだろうか、と思いながら泉移動が引き起こす波が止むのを待つ。


 さあ、やっと順番が回ってきた。


 実はこれまで三木、如月、そして泉と僕は三人分の動きを観察していた。


 その感じだとここをクリアするには二種類の方法がある。


 一つ目。衝撃を少なくする。中央を歩くのは当然として、衝撃を少なくすれば、落ちないで済むことがある。体重にもよるだろうが、三木がオーケーだったので似たような背格好の俺も問題ないだろう。


 そして手段その二。走る。


 簡単な話で落ちる前に移動してしまえばいい。ダイラタンシーという言葉がある。片栗粉などを溶いた水の上を全力で走れば落ちないという実験が有名だが、要はそれくらいの気概を持って足を動かせば板もあることだし似たようなことができるのではないだろうか。板が沈む前に他の板に移動する、なんだか、こう、少年心がくすぐられる。かっこいい言葉で言うならロマンってやつだ。


 そしてこれらは両方同時に行うことができる。


 俺は靴で木の板を軽く蹴り走り出した。


 忍者のように衝撃を少なく。一歩ずつ板に飛び移るように。スムーズに、動きに無駄がないよう。右足がつく前に左足を出す。


 完璧だ。


 如月のいる目標地点、大きめの板までの距離はぐんぐんと縮まっていく。


 最後は如月に迷惑がかからないよう、スピードと威力を落としてカッコよく着地するのだ。


 ……ん? 俺はどうしてカッコよく着地したいのだろう。


 そんな疑念がよぎった。


 ……いや、カッコつけるのに理由なんていらない。

 誰か——例えば如月とかに見せようとかそういうわけではない。きっとヒーローに憧れる少年のような心境なのだろう。全く、柄でもないことを。


 そうはわかっていても身体はもう止まらない。


 華麗に最後の板に着地を決める——


「えっ?」


 足元がツルっと滑った。


 しまった。


 そういう罠(トラップ)があったのか——


 傾いていく景色。


 止まってくれ、と願うが地球の法則は俺だけの味方をしてくれなかった。


 しかし、パシッと誰かが俺の腕を握る。


 グイッと引っ張られる感覚に俺は反射的にもう片方の手で俺を掴む腕を握り返していた。


 端の方でなかったのが幸いしたのだろう。

 なんとか持ち直した俺は助けてくれた恩人の顔を確認する。


「大丈夫でしたか?」


 冷や汗が一瞬で熱を帯びるのを感じた。


「あ、まあ、大丈夫。ありがとう」


 そう告げるのが精一杯だった。


 やってしまった。


 強烈な酸味が胸に広がる。

 

 カッコつけて転びかけた居心地の悪さと、それから——


「柳沢さんって意外と腕に筋肉あるんですね」

「い、いや? 俺なんかモヤシとかゴボウとかそういうレベルだぞ」


 浸っているところに話しかけられて変な返しをしてしまった。

 

「そうなんですか? 引っぱられた時、思ったより力が強かったのでそうなのかと思いました。私、同年代の男の人の腕を握ったのが初めてなので」


 ……初めて、なのか。


 俺は骨と皮と僅かな肉で構成された手をグーパーと広げたり閉じたりする。


 そういえば如月の腕、柔らかくて、細かったな……


 変態みたいだけど仕方ない。


 本当にそう思ってしまったのだから。

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