26話 思い出は花と共にあった

 冬眠していた熊が眠りから覚めるように、暖かくなってくると日常はその陽気に少しずつ浸食されていく。

 それは気づかないうちに訪れているもので、雪が溶けてきたとか花が咲いたとかそういった風情のあるものなのだが俺の場合は違った。


 ああ、もう。鬱陶しい、と俺は腕を振る。


 厄介なことにこの頃道を歩いているとよく襲われるのだ。


 ふわふわと漂う虫はこの世から抹消すべきだと思う。

 俺は再び髪のあたりに違和感を覚えて手で払う。


 啓蟄とは昔の人もよくそんな言葉を考えたものだ。

 このところ虫とのエンカウント率が異様に高い。


 自転車を漕いでいるときなんかは顔面に虫が当たるときがあるし、もう散々だ。


 ただ、こういった生物は生態系に必要だから俺も存在を黙認しているわけであって、本来なら燕などが食べてくれるらしいのだが、この辺りにそれらしき姿は見えない。

 いるのは夕方駅前に集まるムクドリか鳴き声のうるさいカラスくらいだ。


 虫がいる田舎なのかはたまた害鳥がいる都会なのか、そこのところはっきりしておいてもらいたい。


 ふわっ、と春の風が吹いた。


 虫がいる点だけ除けばだいぶ日も伸びたし、気温も湿度も適度で最高な季節なのかもしれない。


 そんなことを考えながら歩いていた俺の目がある店に留まった。

 

 そこはお世辞にもあまり栄えているとはいえないようなひっそりとした花屋だった。

 店の存在自体は昔から知っていたのだが、そのガラス扉から岩崎が花を抱えて出てきたのだ。


 あの花屋を利用する人って結構身近にいたりするものなんだなぁ、と歩きながらぼんやり見ていると岩崎と目が合った。


「偶然だね。丁度帰るところだったのかな」

 

 気さくに手を振りながら近づいてくる岩崎からは、その手に抱かれた生花特有のみずみずしい香りがした。


「はい、そうですね」

「因みに如月君なら今日もバイトだけど」

「ですよね。部活に如月が来てなかったのでそんなことだろうと思ってました」


 どうしてわざわざ俺に如月が出勤しているかを伝えるのか、と聞き返したくなったが何とか堪える。

 代わりに俺は岩崎に抱えられている花束に目を向けた。


「その花、店にでも飾るんですか?」


 どうせこの人のことだから、そうだよ、と軽い返事があるものだと俺は予想していた。

 しかし岩崎は少し間を置いてから静かに首を横に振った。


「いいや、違うよ。これは大切な人に送るものなんだ」

「もしかして、奥さんとかですか」


 その答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。いつもの飄々とした顔は消え、岩崎は怖いものを見るような目を俺に向けてきた。


「すみません、指輪をしているのでそうなのかと」

「……ああ、なるほど。よく見てるね」


 苦笑するように頭をかくと顔を上げた岩崎は普段通りの表情に戻ると呟いた。


「そうだなぁ、せっかくだから聞いてもらおうかな」

「……話たくないことなら話さなくてもいいですよ」

「いいや、こんな機会でもないと誰かに話さないからね。それに花を買うとこも見られたわけだし」


 遠くを見つめながら言うものだから俺もつい黙ってしまった。


「僕には妻がいたんだ。とても優しい人で僕みたいな人間と一緒に笑ってくれたり、時には怒ってくれたり。本当にいい人だった。だけどある日。突然この世からいなくなってしまった」


 岩崎は天を仰ぐ。


「この花はあの人が好きな花だったんだ。ここを通りかかった時、まだ花の名前も知らなかったけど見ただけでピンときた」


 いつも飾っていたから。

 

 そう岩崎は口にした。


「……変なこと聞いてすみませんでした」

「いいって。僕はこれっぽっちも気にしてないから。それに自分から話し出したことだしね」


 口元を緩めると岩崎は続ける。


「ただ、後悔がないように生きなよ。いつでもやれると思っていても、後になったらできなくなるかもしれない。だから僕も後悔しないようにって店を開いたんだ。柳沢君はそこまでしなくてもいいけど、思い残しのないように動くといいよ」

 

 俺は返す言葉が思いつかなかった。


 ただわかったことがある。

 この人にも色々あったということ。そして定期的に花を買い続ける心の優しい人だということだ。


「それじゃあ、僕はもう行くね。日が伸びたとはいえ、すぐにまた暗くなるから気をつけるんだよ」


 俺は夕暮れの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「ありがとうございます。岩崎さんもお気をつけて」

「僕は心配されるような歳じゃないよ」


 ははっ、と岩崎はアメリカンジョークのように笑うとくるり、と方向転換をした。


「……でも、ありがとね」


 春にしては少し爽やかな風がすぅっと俺たちの間を駆け抜けた。

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