23話 午前一時にエスコートをした

 机に突っ伏して如月はすやすやと寝ている。


 しかしまさかここで寝るとはな。


 一応就寝スペースも存在するのだ。

 しかもそちらには女性専用スペースがあって安心できるはずなのだが、とてもじゃないけどこんなに幸せそうに寝息をたてられてしまうと無理やり起こすのも可哀想に思える。


 自然に目を覚ました時にそちらに移動するよう言うとするか。


 それまではそっとしておいてあげよう。


 さて、そうなると俺が眠ってしまうわけにはいかない。


 眠気が飛ぶようなことをしないと。

 何をしようか。

 

 その時すぐ近くに本棚があったことを思い出した。

 確かその棚には誰もが一度は名前くらい聞いたことがある漫画の背表紙が並んでいたはずだ。


「……たまには読むか」


***


——ハッ!?


 俺は船を漕ぎかけた首を精神力で持ち上げる。


 時計を見ると既に一時間が経過している。

 流石に俺も少し危うくなってきた。


 手から滑り落ちそうになっていた漫画をそっと閉じる。

 どんなに名作を読んでいようと、残念ながら生物の理には勝てない。


 若干霞がかかりつつある頭で思考を巡らせる。


 やはり心苦しいが如月を起こすしかない。せめて就寝スペースで寝てもらうのだ。


——俺の意識が落ちる前に。


「おい、如月。起きてくれ」


 声をかけるがピクリともしない。


 仕方ない。寝ている近くで机をコンコンと叩けば目覚めるだろう。俺は身を乗り出し如月の顔近くへ手を伸ばした。


 ふわっ、とシャンプーのいい匂いがした。


 甘い匂いだ。


 突然、沈みかけていた俺の意識が急浮上した。

 

 えっ、女子ってこんなにいい匂いするの?

 

 未体験の香りに驚くあまり俺の手を伸ばす先がズレる。


 ぽん、と手を置いた先は如月の肩だった。


——触ってしまった。


 温かく、柔らかい。

 手に人肌特有のぬくもりがじんわりと伝わってくる。もう少し触っていたい気分だった。

 この不思議な気持ちは……多分、犬とか猫を撫でるアニマルセラピーと同じ感じなのだと思う。


 数秒の間、俺は自分が如月に触れたまま停止していた。

 その間、様々な考えが俺の脳内を駆け回った。 


 やがて一つの結論にたどり着いた。


……こうなったらもう、このまま起こすか。


 如月には不慮の事故で触れてしまった。だが元々は彼女を起こすためなのだ。

 

 俺は如月を軽るく揺さぶる。


 すると反応があった。


 もぞもぞ、っと如月が動いたので俺は手を引っ込める。


「如月。寝るなら向こうで寝た方がいいぞ」

「……んー。もうちょっと……」


 なんだ、この猫みたいな生物は。

 可愛さの塊か。


 俺が知りうる限り最も心にグッとくる甘い声で如月は延長を求めてくる。


 だが、こういう時こそ、心を鬼にして俺は如月を移動させなくてはならないのだ。


「……うん。わかった……」


 ゆっくりと立ち上がった如月だったがすぐにふらり、と倒れそうになる。


 俺はとっさに如月の後ろに手を回していた。


 直後、俺は反省する。

 何でもかんでもハラスメントに認定されてしまう昨今のシビアな世の中ではこの行為は下手したら訴えられかねないものだった。


 側から見ればさっきから気にしすぎ、と思われるかもしれないがこういう気の緩みが落とし穴になることもあるのだ。警戒するに越したことはない。


 それでも転ばないように、と如月が体勢を立て直すまで待った後、俺は肩に回していた手を離す。


 ありがたいことに如月は何も思わなかったらしい。


「……んー」


 などと言いながらそのままゆっくりと歩き出した。


 俺は如月が転ばないようエスコートする。


 共有スペースに到着した。

 しかし俺がいるとその奥にある女性専用スペースまではいけない。かといってこのまま如月を一人で歩かせるのもいささか不安が残る。


 少し考えた後、俺は共有スペースの壁側に如月が位置するように誘導する。


 そして続いて通路側に俺は腰を落ち着けた。


 俺が盾みたいな役割、というわけだ。効果があるかどうかはわからないが、まあ、いないよりマシだろう。


 隣ではすでに如月がすうすうと寝息をたてている。


 俺は音を立てないように立ち上がると備え付けられている毛布を取ってくるとそっと如月にかけた。


 ずっと気になっていたが口調がだいぶ変わっている。ひょっとすると親とか気の許す人の前だとこんな感じなのかもしれない。


 気にならない、そう言えば嘘になるがそんなことを本人に聞くわけにはいかないだろう。

 俺だって失言をほじくり返されたら人としてやっていける自信がない。穴があったら入りたくなる。


 やられて嫌なことはしない。

 人間関係を保つ上ではそれが鉄則だ。


 だから如月が口にしたことも忘れようと思う。


 ……あの甘えるような声を忘れられたら、の話だが。


 そして俺も横になり、毛布をかけると目を閉じた。

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