10話 体も頭脳も動かし過ぎた

「痛い……」


 朝起きて一言目がそれだったような気がする。


 昨日、俺は張り切りすぎたらしい。

 起きてみれば全身が筋肉痛だった。特に使ってもいなさそうな腹部が少し動かすだけでピリピリと刺激が走る。

 でも長距離走も待ち構えていることだし、筋肉をほぐせてよかったと思うことにした。

 幸いなことに今日は祝日だ。おかげでゆっくりと休息をとることが出来る。存在をすっかり忘れていたので思わぬ拾い物をした気分だ。

 

 しかし、俺はそんなことより昨日の体育の時間の方に未だに意識が向いていた。


 如月が大いに活躍した試合はあれから外野のメンツがなんとか復活してくれたこともあり引き分けに終わった。


 それ自体は全然構わない。というより勝敗なんて些細な問題だ。


 問題なのは如月の態度だ。


 内野の人数を数える時、俺は如月の近くまで移動した。何となく、何となくではあるがその時こちらをみた如月の視線は俺を睨め付けるようなものだった。


 試合に集中していたせいだろうと流していたがどうもそれだけではない気がする。あの時流してしまったが、俺だけを狙っていたことも何か関係していそうだった。


 気になった俺は如月に会いに行ってみることにした。

 もし今日も同じなら俺が何かやらかしてしまったのだろう。


 丁度さっき、午前中から今日も今日とて運動不足を心配する優しい親の気遣いによって外出することになった。早めに帰ってくると思っているのだろう。雨が降りそうだけれどお構いなしだ。だけど積極的に家を出るのも悪くないとさえ思えた。


 もし仮に何か反感を買うような行動をしていたなら謝るのは早いほうがいい。

 筋肉痛の体に鞭を打ちながら彼女のバイト先へ向かった。


 最初の時に比べて如月に話しかけるのも手慣れてきたものだ。

 スーパーに到着するなりその姿を見つけると俺は声をかける。


「何でしょうか」


 ——すぐに分かった。


 間違いない。俺は何かやらかしたのだ。

 

 普段のバイト姿と変わらないように見えるが俺には分かる。

 如月の口調はいつもより平坦。心なしかその目も冷たい。


 にこりとも笑わないその姿から俺は無機質なフランス人形を連想してしまった。


 何か機嫌を損ねることをしてしまった、そう確信を得た俺は原因を考えてみる。


 最後に如月と会ったのはショッピングモールだ。あの時は普通だったから何かやらかしたとしたら元凶はそれ以降のタイミングしかない。


 しかしそれ以降俺はあの授業まで如月と話していないどころか姿すら見かけていない。


 つまりショッピングモールで如月が俺のことを嫌いになるような出来事があったのだろう。


 何とかしなければならない。俺の胸がジクジクと疼いて、苦しい。この言葉にし難い気持ちはきっと罪悪感なのだろう。

 だけど早く解決しようとすればするほど頭が回らなくなっていく。


「用がないのならこれで」


 如月が立ち去ろうとする。

 思いだせ。俺は一昨日如月と何を話した。

 このまま関係が修復できなければあの時買った飴が無駄になってしまうだろう。

 喉まで何かが出かかっている。ああ、もどかしい。


 その時思考を巡らせていたはずの脳の働きが強制的に中断させられた。


「——っ!」


 腹筋あたりがズキン、と痛んだ。


 声にならない声が漏れ出る。

 油断していた。筋肉痛が思ったより痛い。もしかしたら自分でも気づかないうちに捻っていた可能性もある。


「——大丈夫ですか?!」


 今日初めて、如月が無表情を崩した。


「いや、大したことないから大丈夫。ただの筋肉痛だ」

 

 筋肉痛かどうかは定かではないが大丈夫というのは心からの本心だった。

 そんなに心配するようなことではない。二、三日早ければ明日にでも治っているだろう。


 だけど心配されたのが何故か嬉しかった。きっと如月との取っ掛かりを見つけられたからに違いない。


 その時俺の脳裏にある出来事が想起された。


 まさか、あれなのだろうか。

 

 そんなことはないと思う自分もいる。しかし同時にあれしかないと考える自分もいる。

 あの日、如月と会話した短い時間で俺が機嫌を損ねるようなことをしたのは実際あれしかないのだ。


「如月、明日夕飯食べに行っていいか……?」


 俺は如月の機嫌を伺いながら恐る恐る口にした。


 我ながら恥ずかしい言葉を口にしている。周囲の温度がほんのりと上昇したような感じがした。これで断られでもしたら俺は恥ずかしくて立っていられない。

 

 俺の歯の浮くようなセリフを聞いた如月は最初は呆気にとられていたが、徐々にこちらの熱が伝播したのか彼女も上気していく。


「——いいですよ。腕によりをかけて待ってますね」


 如月が見たことないようなとびきりの笑みを浮かべた。


 どうやらこれで正解だったらしい。

 恥を忍んだかいがあったな。


「それと、私からも伝えなければならないことがあるのですが……」


 彼女は口ごもりながら上目遣いをするように俺を見た。


「昨日は執拗に狙ってしまってすみません。その、我ながら子供でした。反省しています……」

「別に気にしてない。おかげで楽しめたしな」


 この会話の後もしばらく会話を続けた。昨日のドッジボールで話題は事欠かなかったと記憶している。如月の球が凄かっただとか、いやいや避けられる俺の方がすごいとかそんな内容だった気がする。まあ、この手のお互いを称える話は今回ドッジボールにおいて好敵手ライバルのような関係である俺たちにとっては自然なことなのだと思う。何もおかしくないのだ。


 いつまでも如月を拘束するわけにもいかない。

 話を適度に切り上げると俺は如月の勧めで、きな粉を買った。

 何でも筋肉痛に効くらしい。頭の働きも良くなるだとか。


 そのアドバイスをありがたく受け取って俺は店を出た。


 ありがたいことに今にも雨が降りそうだった天気はいくらか回復していた。

 おそらく俺が家に帰るまでは保つだろう。


 それにしても如月は俺と一緒に夕飯を食べたかったのだろうか。

 仮にそうだとすれば何故、という当然の疑問が湧いてくる。

 

 あるいは、如月が機嫌を損ねていた理由は別にあって機嫌が直ったのは何か別の理由があったのかもしれない。


——いや、どうでもいいか。


 そこまで考えて俺は思考を放棄した。


 結局他人を完全に理解することは誰にもできないのだ。


 それならそんな無駄なことを考えるのは必要ない。

 ただ今は、如月と再び普通に会話できることだけを喜べばいいんじゃないだろうか。


 だって俺がそうしたいのだから。たまにはそういうのもいいだろう。頭でっかちは疲れるからな。

 

 帰ったらきな粉牛乳でも飲もうか、などと考えながら晴れ間の覗いた空の下を帰路についた。

 




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