3話 廊下で意外な一面を見た

 これは絶対に負けられない戦いだ。そのためなら身命を賭しても構わないとさえ俺は思っている。

 この場にいるのは全員が猛者。気を抜くことは許されない。 

 全身に力を込めて俺は力強く拳を突き出す。


「——最初はグー、ジャンケンポイ!」


 俺は一人だけ、ジャンケンに負けた。


 囲碁将棋部。それが俺の所属している部活だ。


 一見するとお堅そうな部活だが内状は見かけによらずかなり緩い。


 活動日は週に二回、火曜日と木曜日。

 参加は自由。

 帰宅時間も自由。

 活動するかも自由だ。


 囲碁は誰もできないし、将棋も気が向いたら指す程度。


 結果、皆が好き勝手に行動して実際のところ囲碁将棋部は勉強部となってしまっている。


 今日は二月の十六日。火曜日だ。  

 いつものようにダラダラと集まり消しゴムのカスを作ると活動を終えた総勢3名の囲碁将棋部員たちは部屋から出た。


 そして始まるのが仁義なき戦いである。

 使っていた教室の鍵を誰かが返却しなくてはならない。

 職員室は二階。そして囲碁将棋部は四階の化学室にある。

 誰もが帰り際、わざわざ下の階に立ち寄って職員室へ鍵を返したくなどはない。


 この時ばかりは皆鬼神を己が身に宿して戦いへ挑む。

 どうせならその戦心を部活動に向けて欲しいものだがかくいう俺もその一人なので人のことは言えない。


 ——そして俺は負けた。


 血の涙が出そうだ。ここのところ毎回負け続けているような気がする。まあその悔しさも一瞬で消え去るのだけど。


 皆が出るのを待ってから、敗北者である俺は化学室の鍵を閉める。

 外はもう暗い。部活終了時刻になると先が見えないほどすっかり夜の帳が下りている。


 さっさと鍵を返して家に帰ろう。


 コツン、コツンと階段を降りる音を反響させながら俺は移動する。

 そして職員室のある二階に着くと、そこにいた人を見て俺は変な声が出かけた。

 

 ひっそりと静まり返った職員室へと続く廊下。そこに如月がいた。俺と同じ方向へ歩いているところだったが階段近くにいる俺に気づくとその足を止める。


「あっ、柳沢さん」


 名前を呼ばれたら近づかないわけにはいかないだろう。俺は如月に追いつくと尋ねる。


「どうかしたのか?」

「いえ、ここで会うなんて珍しい、と思いまして。柳沢さんは部活終わりですか?」

「まあそんなところだ。そっちは——自習か」


 如月の白い手に握られているのは紛れもない参考書だった。辞書ほどもある分厚いやつだ。入学時に全員購入した物で、当然俺も持っているのだが授業で使ったのは最初だけ。今頃は部屋の隅でホコリをかぶっていることだろう。


「はい。わからない問題があったので先生に質問しにいくところでした」


 それを聞いた時俺はこう思った。

 へー。如月にもわからない問題があるんだな。


 馬鹿にしているわけではない。そこには並大抵でない努力が隠されているのだろう。

 俺はそこまで勉強というものに熱心に取り組んでいないのでわからない問題かどうかもわからない。

 噛み砕いていうと、わからない問題は基本的に参考書にも答えが載っている。その通りにやれば解く分には苦労しないのだ。

 それで理解しているのかと問われるとちょっと苦しい。テストはクリアできるがそれはどちらかというとパターンを覚えて暗記しているだけなのかもしれない。それもテストに向け要所要所押さえておく程度。

 

 何が言いたいかというとつまり、俺と違って如月は勉強の本質のようなものを捉えようとしているのだろう。

 正直格が違う。


「柳沢さんは鍵の返却ですか。そういえば部長でしたね。お勤めご苦労様です」

「よく知っているな」

「この前の学校だよりに乗っていたじゃないですか。それに一年生で部長なんて目立ちますし」


 それもそうか。

 言われてみると確かにそんなこともあった。加えて部長の面々に同学年はいなかった気がする。


 同時に俺は如月が柳沢亢というフルネームを知っていたことがようやく腑に落ちた感じがした。


「うちの部活には二年生がいなかったからな。それに俺は元々部長をやるつもりなんてなかったんだ。他に誰もやる人がいなかったからなった、それだけだ」

  

 でも、俺がやらなかったら他の二人にお鉢が回ることになる。片方は任せるに値する人間だが真っ先に副部長へ立候補してしまった。もう片方は少し尖った人なので任せるには少し心許なかった。会議をすっぽかされでもしたら困るしな。


「部長になっても何の権限もない。俺はただの飾りだよ」

「そういうものなんですか」

「そういうものだな。というかお疲れ様はこっちのセリフだ。昨日もバイトだっただろ。大変だろ」

「確かにバイトを始めてから一日の密度が濃いです。でも私が好きでやってることですから」


 過酷であろう一日を如月はさらりと流してしまう。

 だが体力もメンタルも強くなければそれは務まらないだろう。


「柳沢さんはスーパーにはよく来られるのですか」

「いや。あまり行かないな。昨日は……気が向いただけだし一昨日はランニングのついでに寄っただけだ」

「——ランニングですか」


 如月が驚くのも無理はない。俺だって自分がそんな柄ではないことくらい理解しているつもりだ。

 あの日は親に優しく追い出されたようなものであって俺の意思でもないしな。


「ランニング……ランニング……得意なんですか?」

「うーん、得意ではないけど、まあ人並み以上にはできるかな」


 俺も伊達に走ってはいない。自慢できるほどではないので控えめにしておくが。


「そうなんですか……」


 すると如月がどこか意を決したように俺を見た。


「柳沢さん、お願いがあるのですが」

「お願い?」

「はい。今度体育で長距離走がありますよね」

 

 そういえばそんなことでクラスメイトが騒いでいたような気がする。

 うちの高校では最後の体育の授業で長距離走が待機している。何でも年度の最後に力試し、という恒例行事らしいがありがた迷惑だ。そんなのマラソン狂以外誰も求めていないと思う。


「それがどうかしたのか」

「はい。私、基本的な運動は大体人並みには出来るんですけど、長距離走だけは苦手なんです」


 俺はこの先の話の展開をうすぼんやりと予感していた。

 いや、まさかな。そんなことあるはずがない。


「その、非常に頼みにくいのですが……私に長距離走の走り方を教えてくれないでしょうか」


 最後の言葉がエコーのようになって俺の脳裏に反響する。


 教える? 俺が?


 如月が長距離走を苦手というのも信じられなかったがそれ以上に俺は現実を認識できなかった。


「……何で俺なんだ」


 やっと出た言葉がこれだった。

 他にもっと適任がいるはずだ。如月なら陸上部とかに知り合いくらいいるだろう。そいつに教えてもらえばいい。

 しかし如月は意外なことを口にした。 


「実は他の人に走れないことを話すのは初めてなんです。いえ、私と同じ中学だった人は知っているかもしれませんが私がそれを悩んでいることまでは知らないはずです」


 確かに如月が何か苦手としているような話は聞いたことがない。息をつく間もなく如月は話し続ける。


「柳沢さんは私がバイトをしていることもご存知ですし一つ知られるのも二つ知られるのも一緒かな、と思いまして……あ、でも、誰でもいいわけじゃないですからね。何と言いますか、この機会を逃したらもう二度と克服する機会がやってこないような気がして」


 なるほど。言いたいことはわかった。しかし期待には添えそうにない。


「俺は惰性でやっているから教える資格も技量もない。それに上手く教えられる自信もない。悪いが他をあたってくれ。そうだ、先生に指導を仰ぐのはどうだ。最近は守秘義務とかあるから秘密は守ってくれると思うぞ」


 断るのは心苦しいが仕方ない。俺に教わって達成できない方が申し訳ない。それなら確実に出来るよう他の人にお願いした方がいいだろう。


 だが如月はどこか不服そうな顔を浮かべて黙ってしまった。

 何か地雷を踏んでしまったか心配しているとやがて如月の口が開く。


「わかりました。教えてもらうことは諦めます。ですが、代わりに柳沢さんのペースを目安として走る練習をします。始める時間も合わせますし自由に走ってもらって構いません。それならいいですよね」


 藁にもすがる思いなのだろう。よほど他の人に知られたくないのか妥協案を提示してくる。

 結局俺はその熱意にあてられて根負けした。


「……わかったよ。少し考えてさせてくれ」

「ありがとうございます。是非前向きに検討していただければ。日時が決まったら教えてください」


 職員室前で「お先にどうぞ」と如月に先を譲られたので俺は鍵を返すべくお邪魔する。続いて如月も入ったが先生を連れてすぐに出て行ってしまった。


 鍵を返した帰りがけに見た自習室の入り口で先生が何やら難しそうな計算をホワイトボードにしていた。

 それを如月はすらりと背筋を正して聞いている。

 

 俺は今まで如月をお嬢様だと思っていた。最初から高嶺の花なるべくして生まれた存在なのだと考えていた。しかしその認識を改める必要があるのかもしれない。

 心の中で頑張れよ、とエールを送って俺は帰路についた。

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