交番警官
あべせい
交番警官
交差点近くのバス停の前にある古びた交番。巡査の芳丘国夫は、その交番に一日詰めている。
と、バス停に路線バスが停止し、一人の若い女性がバスから下りて交差点のほうに歩き出す。しかし、女性は歩道の右手にある交番を見ると立ち止まり、やや躊躇してから、サッシのガラス戸を開けて中に入った。
机の上で書き物をしていた芳丘は、顔をあげ、女性を見た。女性は、驚くほどの美形だ。道でも尋ねるつもりだろうか。35才独身の芳丘は、たっぷり時間をかけて、女性の相手をしてやろうと立ちあがり彼女を迎えた。
「何か、お困りごとですか?」
芳丘は壁に立てかけてある折り畳みのパイプ椅子を引き寄せ、自身の椅子のすぐ前に組みたてた。
「どうぞ、お掛けください」
「はァ……」
女性は戸惑っている。そうだろう。用意されたパイプ椅子に腰かけると、芳丘が自身の事務椅子に座った場合、彼とヒザがぶつかってしまう。そんな間近で初対面の男と話はしたくない。
だから、
「わたし、悪い男に後をつけられているンです」
と、前置きなしに言い、芳丘を驚かせた。
「ヌッ」
芳丘は腹にグッとくるものを感じる。久々にやる気が起きたのだ。
「詳しい話をお聞かせいただけますか?」
「ここで、でしょうか?」
女性は、キャスター付きの事務椅子に腰掛けた芳丘を見下ろしながら、不安そうに言った。
女性は小汚い交番のなかを舐めまわすように見ている。女性がいぶかるように、本来なら本署の仕事だ。しかし、本署に行けば、おいしい事件を刑事課の連中に見す見す取られてしまう。
芳丘は出世を諦めている。そこには思い出したくもない、いやな思い出があった。
ちょっと注意したことがきっかけだった。ただ、その相手が悪かった。長年、本署を取り仕切っている副署長の黒石。ヤツは定期的に異動してくるキャリアの署長をうまく手なずけて、署内を完全に支配している。それに楯突いたのだから、仕方ない。
芳丘はすでに万年交番勤務を覚悟している。だからこそ、たまには署長もびっくりするような事件を解決して、刑事課のバカ連中の鼻をアカしてやりたいじゃないか。
「ここが不都合でしたら、お嬢さんのお好きなところで行いますが……」
「わたし、お嬢さんじゃありません」
芳丘は思う。女性は見た目、20代後半。30才にはいってないだろう。35才の芳丘にとって、20代の女性はすべてお嬢さんだ。彼の結婚対象者だから。
「私は赤塚署正連寺前交番の芳丘国夫です。お名前だけ、お聞かせください……」
芳丘は、自信のある鼻先をコンッと揺すり上げてから尋ねる。彼が自信を持っているのは、鼻の形だけだ。
「わたし、一富京(いちとみみやこ)といいます」
「ミヤコさん、いい名前だ」
芳丘は、心底そう思った。すると、京はクスッと笑みをもらし、かわいい笑顔になった。
「ここは、だれも邪魔をしません。私が懇意にしている喫茶室です」
「静かな、いいお店ですね」
和風喫茶「かえで」の店内。テーブル席のほか、奥に8畳ほどの畳敷きの席があり、客の数に応じて、衝立で仕切るようになっている。その時間はたまたま芳丘と京しか利用客がなく、2人は女将のはからいで、4畳半ほどのスペースに衝立で仕切ってもらっていた。
「交番のほうはよろしいンですか?」
交番から「かえで」までは徒歩7、8分の距離だ。
「『パトロール中』の札を受話器のそばに立てかけてきましたから、2時間は平気です」
芳丘が正連寺前交番に詰めるようになって5年になる。芳丘が交番勤務を命じられた頃、ちょうど「かえで」の女将が愛する夫を事故で亡くしている。当時、芳丘は30才、女将は28才だった。
芳丘は女将の力になりたいと思い、時間が許す限り店を訪れ、女将に話しかけた。そのせいばかりではないだろうが、女将は少しづつ元気を取り戻し、いまでは亡夫が生きていた頃に負けないくらい溌剌として、ひとりで店を切り盛りしている。
ただ、芳丘と女将の関係は、少しも進んでいない。2人は、交番巡査と、週に一度立ち寄る和風喫茶の女将という関係でしかない。親しいが、それだけだ。女将がそれ以上の関係を望んでいないからだとも言える。
「それで、ストーカーですが、いつからですか?」
「3ヵ月ほど前からです」
「京さん、お仕事は?」
「図書館に勤めています」
芳丘は図書館を利用したことがない。
「どちらの?」
「成増南図書館です」
成増南なら、交番から徒歩20分ほどの距離だ。
「すると、ストーカーは図書館で働くあなたを見て、邪まな考えを抱いたのでしょう」
「はァ……」
京の反応は鈍い。
「ストーカーされるのは、どんなときですか?」
「決まっていません」
「お仕事の行き帰りは?」
「そのときもされます」
「お休みの日も、ですか?」
「は、はいッ」
「いつですか?」
「図書館がお休みだった先週の月曜日、スーパーで……」
京は、なぜか言いよどンでいる。芳丘は、京に対して、初めて疑問を抱いた。
「そのストーカーに心当たりはありますか?」
「エッ?」
「ですから、知り合いだとか、職場が一緒だった男だとか、です」
京は首を左右に振り、
「いいえ、知らないひとです」
「では、人相、特徴を教えてください」
「特徴ですか……」
京は、天井をみあげて、考えている。思い出しているのだろうか。
「年齢は? いくつぐらいの男ですか?」
「50才くらい……」
「50ね……」
芳丘は、50男が京のような若い女性をつけまわしている光景を想像してみた。しかし、しっくりこない。もっと若い男ならわかるが、親子ほど年の離れた男がストーカーとは……。
「身長はどうです。高いか低いかだけでもいいです」
「普通だと思います」
「私くらい?」
「はい」
「太っていますか、それとも……」
京は、芳丘のことばを遮るように、
「太っています」
と、強く言った。
「顔はいかがですか。何か、特徴はありませんか?」
と、急に京の表情が歪み、険しくなった。
「そんなもの、わかりません。怖くて、はっきり見ていませんからッ」
強い口調で、吐き捨てるように言った。
何が、彼女を怒らせたのだろう。芳丘は考えたが、わからない。
矢継ぎ早に質問したせいで、疲れたのかも知れない。2人のテーブルには、コーヒーカップがある。芳丘はすでに飲み干しているが、京のはまだ半分ほどカップに残っている。しかし、すっかり冷えているだろう。
「女将ッ!」
芳丘は女将のかえでを呼んだ。女将の名前は店名と同じかえでだが、芳丘は名前で呼んだことがない。呼んでもおかしくない関係にあるはずだが、芳丘はなぜか、いまだに他人行儀にしている。
かえではすぐにやってきた。
「京さん、何か、召しあがりませんか。この店は、なんでもおいしいです」
「でしたら、芳丘さんも何かご注文してください」
かえでが笑みを浮かべて言い添えた。
「じゃ、葛餅2つ。京さん、それでいいですか?」
京は深く頷いた。
かえでが去ると、京は、突然、息せき切ったように、
「男の体はずんぐりしていて、眉は黒く太く、目は大きく、鼻は低くつぶれていて、顔全体が、お祭りに登場する獅子舞、古ぼけた獅子頭ですッ……」
と、まくし立てた。
彼女のなかで、何が起きたのだろうか。芳丘は唖然となった。
芳丘は、職業柄、人の顔を覚えるのが得意だ。いや職業柄以上に、天性のものを持っている。一度見たら、忘れられないのだ。困った性癖ともいえる。
それが役に立ったのは、これまでの10数年の警察官生活で、たった一度。逃走していた手配中の殺人犯を、競馬場で2万人の観衆の中から発見したときだ。本部長賞を授与され、テレビでもニュースになった。しかし、その一度切りだ。あとは、酒を飲んだときなど、何の役にも立たないひとの顔がグルグルと頭のなかを駆け巡り、彼をイラつかせる。
芳丘は、京が話す人相に心当たりがあった。
黒石だ。京が言う人相の男は、副署長の黒石にそっくりだ。これはどういうことなのだろうか。
しかし、黒石が京をストーカーしていることは考えられない。アリバイがあるからだ。京は図書館が休館だった先週の月曜日に、買い物中にストーカーされたと言ったが、黒石はその日、間違いなく署にいた。
ただ、あの男は女性に見境がない。若い女性署員に対するセクハラの噂は絶えない。副署長でなかったら、依願退職を迫られているところだ。芳丘が、黒石の不興をかったのも、セクハラだった。
当時、芳丘が片想いしていた総務課の若い女性署員に、黒石はしつこく言い寄っていた。言葉だけではない。黒石はエレベータの中で、いやがる彼女の手を握ろうとした。そのときエレベータのドアが開いた。偶然そのエレベータに乗り込み、その瞬間を目撃した芳丘は、「いいかげんにしろッ!」。黒石に向かってどなりつけていた。
その一言が、芳丘の出世を遮断した。
「京さん、私、そのストーカー男に心当たりがあります。証拠を掴んで、法の裁きを受けさせましょう」
「本当ですか」
京は、うすく笑っただけで、言葉ほどには感激したようすがない。芳丘は再び京に疑問を抱いた。
ただ、芳丘には、啖呵を切ったもののストーカー男を捕まえる自信はなかった。やる気は充分あるのだが、黒石がストーカーであるはずがない。では、どこのだれだ。たった一人で、その男を突き止めるのは、不可能といっていい。
すると、京は芳丘に、ある提案をした。芳丘は、あまりいい方法だとは思えなかったものの、京のような美女と再び会えるのだと思うと、拒否する理由がなかった。
その日の夜。芳丘が後片付けをして交番を出ようとしていると、
「ごめんなさい」
かえでの女将だ。彼女の名前は店名と同じかえでだが、芳丘は頭の中で彼女を呼ぶとき、つい「女将」と呼んでいる。その分、彼女との間に距離を感じているのだろう。
かえでは、アイボリーの薄手のカーディガンを羽織り、黒のタイトスカートをはいている。芳丘は店にいる和服姿のかえでしか知らないためか、洋装のかえでに新鮮な魅力を感じた。
「女将、どうされたンですか」
「少し気になることがあって……」
「お店は?」
午後7時まで営業していると聞いている。まだ、午後5時過ぎだ。駅前交番は2人勤務の24時間体制であるのに対して、正連寺前の交番は、芳丘ひとりで、あさ9時から午後5時の勤務になっている。
「少し早仕舞いしてきました」
かえでの顔は上気しているように、ほんのり赤く染まっている。
「お掛けください」
芳丘も腰掛け、パイプ椅子をかえでの前に組みたてた。
「すいません」
かえでが腰かけると、2人の間は50センチと距離が縮まった。しかし、かえではいやそうなそぶりを見せない。芳丘も、拒否する気持ちは全くない。むしろ、かえでの肉体が発する甘いかおりに、快い息苦しさを覚えた。これは、危険のサインだろうか。警察官としてあるまじき失態を演じるかも知れない。女性経験の少ない芳丘には、これから何が起きるのか、予測ができなかった。
「女将、気になることって?……」
「きょう昼間、芳丘さんがお連れになった女性は、前にも来られています」
京が『かえで』を訪れるのは、2度目になるというのだ。しかし、京は、初めてのような顔をしていた。
「前は、黒石さんとお見えになりました」
「エッ!」
芳丘に、緊張が走る。京は黒石とつながっていたッ。
「黒石があの女性を連れてお店に行ったのは、いつのことですか」
「5日ほど前です。もっとも黒石さんには、いろんな方とご一緒に、よくお店を利用していただいています」
黒石が、かえでに執着しているという噂は芳丘にも聞こえている。
「そのとき、2人はどんなようすでしたか?」
「ようす?」
「親しげだったとか、事務的に、ビジネスの話をするようだったとか」
「そうですね」
かえでは交番の窓ガラス越しに空を仰いで、
「黒石さんは親しげに話されていましたが、女性の方はどちらかと言うと、生徒が先生からお説教されているような感じで、俯き加減に静かに聞いておられました」
「どんな話をしていたか、何か覚えておられる言葉はありませんか?」
「言葉……そォ、『証拠』とか『現場』という言葉が数回、聞こえてきました」
「証拠、現場……」
芳丘は、黒石が何かを企んでいるのだと想像はできたが、それが何かは見当がつかない。
芳丘は非番の今日、新しくできた巨大ホームセンターに向かっている。京が、資材置き場で待っているはずだ。木材やパイプなどの建築資材の売り場は、比較的お客の出入りが少ない。しかも、平日。閑散としている。
2日前、芳丘は「かえで」で京と話したとき、約束した。京がストーカーをそこに誘い込み、芳丘が犯行現場を押さえる。京が申し出たことだ。芳丘はオトリ捜査を好まない。京の提案は一種のオトリ捜査であり、犯罪を誘発する。しかし、犯人検挙には、手っ取り早いやり方には違いない。
約束の時刻は、午後3時半。京は自宅を出て、バスでホームセンターに行く。京の話では、ストーカーは京の自宅があるマンションから尾行することが最も多いという。もし、ストーカーが現れなければ、京はホームセンターで芳丘と会って、そのまま別れる。その場合、芳丘には、京を食事に誘うという甘い思惑があった。
芳丘がホームセンターに着いたのは、午後2時20分。1時間以上早い。しかし、これが芳丘の捜査方法だった。交番勤務の前、捜査1係で強行犯を扱っていた頃は、約束の時刻の1時間前に行き、周囲の地形や建物を頭に叩き込んだ。その事前の準備が、役に立つことは少なくなかった。
きょうも……。
芳丘は、ホームセンターの駐車場に車をつけると、初夏の陽気にもかかわらず、フード付きのジャケットを着て、キャップを深く被り、度の入ってない変装用の黒縁メガネをかけて、車から降りた。ポケットには、ICレコーダーと、男が抵抗した場合に備えて、50センチの長さに切断したバイク用のチェーンを忍ばせている。
芳丘は正面入り口から入ると、資材置き場を確認して、歩を進めた。カー用品売り場、塗料、工具の売り場の先が、資材置き場だ。天井まである長いパインの板材が見える。
そのとき、芳丘はハッとして身を縮めた。いけないものを見てしまった。緊張が走る。
京だ。ベニヤ板が平積みされた一画に、京の横顔が見えたのだ。だれかと話をしている。約束の時刻より、1時間も早いのに、だ。ストーカーが予定より早く行動したというのか。別の可能性が芳丘の頭脳を横切った。
芳丘は足音を殺して、京に接近する。杭用のパインが立ち並ぶコーナーを回る。いたッ!
黒石だ。別の可能性が的中した。京と黒石のつながりが、ここに現れている。2人は、太い柱のかげで、話し込んでいる。
「あの男は単純だ。激しやすいから、精一杯の大声をあげることだ」
「約束は守っていただけるのですね」
「キミもくどいな。50万円くらいの金で、約束を破ったりしない。約束通り、チャラにしてやる」
「だったら、わたしが書いた借用書を見せてください」
「だから、それはここに持ってくるのを忘れたと言ったじゃないか。何度も言わせるな」
「もし、約束を守っていただけなかったら、わたし、黒石さんの秘密をバラしますから……」
「なんだッ、おれの秘密って。そんなものはないッ!」
「あります。黒石さんは副署長の立場を利用して、出入りの業者から賄賂を受け取っている……」
「ナニッ!」
「わたしのスナックのお客さんに、赤塚署の警察車両の整備を請け負っておられる戸倉さんという方がいるンです。戸倉さんは酔うとよくこぼされます」
「なに、あのバカがッ!……」
「毎年、年度末になると……」
「わずかな額だ。スズメの涙というやつだ」
「10万円でも、賄賂は賄賂です」
「あれは賄賂じゃない。リベートというやつだ。世話料だ」
「戸倉さんは、賄賂とおっしゃっています」
「それをバラすってかッ。いいだろう。約束は守る。50万の借金はチャラにしてやる。おれは、ペット売り場のほうで時間をつぶしている。キミは予定通り……」
「いいえ、わたしも2階の手芸用品売り場で3時まで過ごし、それからバス停に行き、3時20分までにはここに戻ってきます。芳丘さんは約束の時刻より早く来られるような気がしますから」
黒石と京は別れた。
芳丘は、黒石の後をつけた。
黒石は、工具売り場、塗料売り場、台所用品売り場などを抜け、大型水槽が並ぶ熱帯魚コーナーで立ち止まった。彼は、腕時計を見て、水槽に挟まれた通路をゆっくり歩きながら、熱帯魚を眺めている。
まもなく、芳丘も署内で見たことがある戸倉が現れた。京と黒石の話にも出ていた車両整備業者の戸倉だ。
戸倉は、額の汗を拭いながら、
「すいません。道が混んでいて……」
と、遅れた言い訳をしている。
「キミ、これでいいよ」
黒石は、目の前にある、幅120センチ、奥行き45センチ、深さ45センチの水槽を指差し、
「これでいい。これなら、狭い我が家でも置ける」
水槽に貼りつけてある値段を見ると、照明やフィルターなど5点セットで「¥49,800」とある。戸倉は店員を呼び勘定を始めた。
「この方のご自宅に届くようにして欲しい。中に入れる熱帯魚は、これからこの方がお決めになるから、ついていって、注文をおうかがいしてくれ。勘定はこの水槽と一緒に私が支払うから」
「戸倉さん、悪いですね。いつもいつも、ご散財をお掛けして……」
黒石は、ひしゃげたダンゴ鼻をヒクヒクさせながら、心にもない世辞を使っている。
芳丘はそこまで見届けると、2階に行った。2階は、手芸用品売場と、半分はフードコートが占めている。
京は、皮革加工用の小さな金具を手にとって見ている。芳丘は、帽子を覆っているジャケットのフードを外して、京の前に立った。京は、目の前に立ち塞がった男を、煙たそうに見上げる。
「芳丘さん……」
「京さん、ぼくはキミのストーカーにはならない。襲ったりもしないよ。黒石がなんといってもね」
京は、芳丘の顔を穴が開くほど見つめた。そして、しばし沈黙の後、
「すいません。ご存知だったンですか」
京は、図書館の勤務後、スナックでバイトをしていた。ホステスだ。どうして、そんなに働く必要があるのか。彼女は、以前から、手芸の小物を扱う小さな店を、図書館の親しい同僚と共同で始めたいと考えていて、その資金づくりのためだった。ところが、そのスナックにたまたま客として来た黒石が彼女に目を付けた。彼女がお金を必要としていることを知ると、「返さなくていいから」と言って、50万円を差し出した。ところが、京のお店作りは頓挫した。共同経営の相手だった職場の同僚が、交際していた男にお店の開店資金すべてを持ち逃げされてしまった。京は、黒石に事情を打ち明けた。すると黒石は豹変した。
「返さなくてもいいとは言ったけれど、無償という意味じゃない。50万円に代わる労働力を提供して欲しい」
と、とんでもない話をしだした。それが、芳丘を身近に引き寄せ性犯罪者に仕立てるというものだった。京がストーカーにつけまわされているというのは、ウソ。この日、ストーカーを資材置き場に呼ぶ込むというのは、黒石が考えたシナリオだった。
芳丘が、資材置き場で約束通り京に会うと、京がいきなり芳丘に抱きつき、黒石が偶然居合わせたふりをして、芳丘を強制猥褻の現行犯で逮捕する筋書きだった。そして芳丘は、懲戒免職を食らう。黒石の計画通り、芳丘は署を追い出される。
芳丘は京の告白を聞いて、一計を案じた。
芳丘は京を連れ、黒石の視野に入らぬように充分警戒しながら、1階の熱帯魚コーナーに行った。黒石は、熱帯魚を選んでいた。時刻は、あと7分で約束の3時半になる。
京は芳丘をその場に残して、黒石の前に行くと、肩に触れた。
黒石はハッとして振り返る。
「キミか。驚かすもンじゃない」
「黒石さん。芳丘さんが……」
「芳丘がどうした。そうか、あと5分で、あの男が来る時刻だったな。でも、まだ来ていないのだろう」
京は頷く。
「おれもそんなことだろうと思っていた。あいつはそういう男だ」
「黒石さん、芳丘さんは悪い人なンでしょうか?」
「とんでもない悪人だ」
「でも、警察官でしょう?」
「警察にも悪いヤツはいっぱいいる。掃いて捨てるほどにな」
「黒石さんは、どうして芳丘さんを捕まえたいのですか?」
「そりゃ、署から追い出すためだ。あんなやつがいたら、赤塚署のためにならンからだ。あの男は、副署長のおれに逆らったンだ。キャリアの署長さえ、一目置くおれに、だ。百年早いって、いうンだ」
「でも、捕まえるって、そんなことができるンですか。芳丘さんも警察官でしょ」
「それは、前に話したろう。キミが芳丘に抱きつかれたとか体を触られたってことにすれば、強制猥褻罪で現行犯逮捕できる。現職警官が強制猥褻で現行犯逮捕されれば、懲戒免職に出来る。おれは副署長だ。その程度の権限はあるンだ……」
芳丘は、もういいだろうと思った。
「副署長!」
「ナッ!」
黒石が、背後からの声に振り返った。
「きさま、どうしてここにいるンだッ」
芳丘はICレコーダーをポケットから取り出し、再生した。黒石の声が流れる。
「……キミが芳丘に猥褻行為をされたってことにすれば、強制猥褻罪で現行犯逮捕できる。現職警官が強制猥褻で現行犯逮捕されれば、懲戒免職に出来る……」
「副署長、明日、これを警察庁の監察官室に提出します。どうなるかはわかりませんが……、それから、戸倉さんに要求しているリベートという名の賄賂についても、話すつもりです」
「オイ、貴様、おれをハメたのか」
「とんでもない。ぼくはハメられそうになったから、ハメ返しただけです」
戸倉が現れた。
「副署長、水槽をお送りする手続きは終わりました。熱帯魚は別便になるそうです……」
戸倉はそう言ってから、芳丘の存在に気がつき、
「芳丘さん、そこにおいでになったのですか?」
「戸倉さん、副署長は気に入った熱帯魚がないから、水槽もいらないらしいですよ」
「エッ、本当ですかッ。副署長、もう支払いは済んだのに……。じゃ、キャンセルするか」
「待て、熱帯魚は家内の希望だ。キャンセルは許さん!」
「エッ、副署長、芳丘さんがおられる前で、そういう話はよくないのじゃ……」
芳丘は、戸倉に話しかける。
「戸倉さん、すべてバレているのですから、いいンです。副署長はたったいまから、旅に出ます」
「エッ、どちらに?」
「副署長、どちらでしたっけ?」
「おれが知るか。おれはどこにも行かンゾ」
「芳丘さん、どういうことですか?」
「黒石副署長は恥ずかしいンです。旅に出るしかない、って」
「恥ずかしい、って? 何があったンですか」
「バカ野郎、おまえが、バラしたンじゃないか。おれは賄賂なンか要求してないゾ。あれはリベートだ。ビジネス上の正当な仲介料だ」
「戸倉さん、どうします。リベートということでいいのでしたら、ぼくもこれ以上追及はしません。しかし、その場合、副署長は、京さんに貸した50万円の代償は求めない。それでよければ、副署長のスキャンダルには目をつぶります」
「本当か。芳丘、おまえ……」
「副署長、ここにいる戸倉さんが証人です。これ以上、ウソは通用しませんよ。いままでの会話もしっかり録音していますから」
芳丘はICレコーダーを示してから、
「京さん、これでいいですか?」
京が明るい顔で、深く頷いた。
3日後。事態は急展開した。黒石は監察官の取り調べを受け、収賄容疑で懲戒解雇になった。垂れ込んだのは、京だった。戸倉も贈賄容疑で逮捕。芳丘にはお咎めはなかった。
その夜、芳丘は午後7時近くに「かえで」を訪れた。かえでから、話があると呼び出されたのだ。署に戻り私服に着替え、交番勤務は終えている。
午後7時の閉店には、まだ10分ほどある。お客は2、3組いる。かえでは暖簾を取り込み、芳丘のテーブルに来ると、
「そのまま、ここで待っていてね」
とささやき、芳丘の肩に手を触れた。
「女将、話って?」
かえでは、振り返り、
「芳丘さん、交番勤務が外れるンでしょ。だから、今夜が最後。わたし、そのつもりでつきあいます」
と言い、テーブルの上の芳丘の手を、ギュッと握った。
(了)
交番警官 あべせい @abesei
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