おじさんの提案を聞いて、ちょっとびっくりした私はおじさんの真意は図りかねたが、提案に乗ることにした。私が合意するとおじさんは奥に行って中古の自転車を一台ひっぱって来た。その自転車には言うまでもなく後ろにインナーディレーラーが付いていた。おじさんはその自転車を手慣れた感じでくるっと逆さにし、ハンドルとサドルを床に付けて置いて後輪を取り外し始めた。あっと言う間に後輪と、変速するためのワイヤーを取り外すと、今度は私の自転車を逆さにして同じように後輪を外し始めた。変速機だけ取り付けるのではなくて、後輪ごと交換してしまうようだ。あっという間に私の自転車の後輪をはずして変速機付きの後輪を取り付けて、変速用のワイヤーをちゃっちゃとフレームに固定してハンドルのところまで取り付け、最後に中古の自転車からはずした変速レバーを取り付けて作業を完了させた。全部で三十分くらいだっただろうか。丸い椅子に座って見ていた私はおじさんの手際の良さにあっけに取られていた。

「すごいですね、あっという間ですね」

「これでも一応プロだからね」

おじさんは最後にワイヤーを調整し、作業中に着いた油をウェスで拭き取って、はい終わりという風にサドルをポンとたたいた。

「はい、じゃあ部品代の千円だけもらおうかな」

わたしは財布から千円を出しておじさんに渡した。おじさんは千円札をレジに入れてそれじゃあ気を付けてお帰り、と言って私が来る前にしていた新車を組み立てる作業の続きを始めた。

「おじさん、さようなら、ありがとう。それじゃ、また来るね」

そう言って私は自転車にまたがって走りだし、変速機を一番低いギヤから徐々に高いギヤに変速して調子をみた。うん、これならあの時見た黒チャリと同じ加速が出来そうだ。早速明日、勝負してやる。そしておじさんの言葉を思い出した。

「その黒い自転車の子と勝負して、その結果を必ずおじさんに教えに来なさい。それを約束してくれたら、工賃はタダにしてあげよう」

おじさんがどうしてそんなことを提案して来たのかはわからない。でもとにかく私はそんなことを考えるよりも性能が進化した自転車を一刻も早く試したかった。


 私は自転車屋さんから家に向かうのではなく、学校に向かう方面に自転車をこぎだした。そして黒チャリが猛スピードで走って行った川沿いの道を、学校に向かう橋を通り越したところまで自転車を進めた。ここから先なら通学路から外れているので同じ学校の生徒に会うことはない。本当なら家に帰らなきゃいけない時間だが、一刻も早く変速機の性能を確かめたかったのだ。

 ハンドルをぎゅっと握り、立ちこぎで思いっきりペダルを踏み抜いた。変速機のレバーを操作してギアを一速から二速へ、そしてスピードに合わせて三速へ。すごい、すごい加速とスピードだ!道のわきの木や草がすごいスピードで後ろに流れて目の前の道もどんどん私の下に流れて後ろに飛んでいく!これなら黒チャリと同じスピードで走ることが出来る、いや勝つことができる!

 私は何度も何度もスタートとギヤチェンジの練習をして最も早く加速できるギヤチェンジのタイミングを練習した。そして絶対に黒チャリに勝つ、というイメージトレーニングを繰り返した。


 気が付くと陽はすっかり暮れて、まわりは暗くなっていた。ジョギングコースは水銀灯に照らされていて明るく、夢中だったので暗くなったことがわからなかった。やばい、もう帰らないと。でも本当はもっともっと練習していたかった。

 家に着くと、遅くなる時は連絡しなさいっていつも言ってるじゃないというママの怒りの声をスルーして、説教されるのが面倒くさかったのでお風呂に直行した。それでもママは脱衣所からお小言を続けていたので、ごめんなさい、友達と図書室で勉強していたの、これからは遅くなる時は必ずメールしますとしおらしい声で演技したらママは気が済んだらしくキッチンに戻って行った。

 うそついてごめんね、ママ。でも黒チャリに必ず勝つから許してね、なんて意味不明な言い訳が頭に浮かび、自分で笑ってしまった。

 食事中も黒チャリとの勝負が頭に浮かんで緊張したり、勝った自分を想像してにやにやしたりしてしまった。ママと柚奈が顔を見合わせてお姉ちゃんが変だね、気持ち悪いねとか言い合っていた。テーブルの下で丸くなっている猫のシャープが、全部知っているよ、頑張ってねと言ってくれているように見えたのは気のせいだろうか。

 食事が終わると勉強も早々に切り上げて早めにベッドに入った。明日は決戦日になるかもしれないので、十分に睡眠を取って体調を整えなきゃと思ったのだ。でも結局興奮して寝つけず、眠りについたのはいつもよりずいぶん遅い時間だった。しかも変な夢も見た。

 それは夢だったんだろうか?視覚の記憶が無い。気持ちだけが残っているというか、それとも視覚的な情報だけ記憶から抜け落ちてしまったんだろうか。とにかく黒チャリとレースをしたイメージだけが強烈に残っている。勝ったのか負けたのかは不明だ。レースをして、全力を出し切った、というイメージだけが残っている。そしてそのあとの気持ち、なんて言うんだろう?胸の奥が小さく震えていて、でも嫌な感じじゃない、いとおしくてちょっと嬉しくてプチ幸せな感じ。今まで経験したことは無いけれど、大切にしたいっていう感情。目が覚めてもその感情だけがはっきり残っていて、しばらくどきどきしていた。明日、本当に黒チャリと勝負できたら、その後こんな感情を味わうのかなぁ・・・とか考えていたらそのうち眠りについた。


 翌朝、私は陸上部の朝連が無いことを知っていたので、黒チャリに会える時間に調整して家を出た。いつもの道をいつものように通って川沿いのジョギングコースに出た。ここに来るまでの間、新しい変速機の調子を確かめながら自転車を飛ばしてきた。あの自転車屋のおじさんの腕は確からしい。変速機は滑らかに動き、いつもの通学路を今までとは違う乗り物で走っているみたいに加速するようになった。今まではスピードによって足にかかる力も変わっていたが、変速機を使うとどんなスピードでも足にかかる力は一定で、まるでペダルと足が一体化しているような、もっと言うと自転車が身体と一体化したような感じを味わった。これなら黒チャリのあのスピードについていける。いや、追い越せるはずだ。少しでも早く黒チャリと競争したい。その気持ちでいっぱいだった。


 川沿いの土手を越えてジョギングコースに入ったところで、わざと目立つように私は自転車を止めてまたがったまま仁王立ちになり、黒チャリを待った。いつもの時間だったらあと数分で黒チャリが来るはずだ。私は自分の心臓がドキドキいっているのがはっきりわかった。今日の天気は春らしいぽかぽか陽気で、空にも春らしいほんわりした雲が浮かんでいた。弱い風がそよそよと川のほうから吹いているせいで川からもしっとりとした暖かい春らしい匂いがしてきた。自転車のハンドルを握っている私の両手はじっとり汗をかいていた。もともと手足に汗をかきやすいたちなのだ。ハンドルをぎゅっぎゅっと握りなおしている時、土手の上に黒チャリが現れた。


 黒チャリは土手からジョギングコースに下りてくる途中で当然、私の存在に気づいた。普通ならこんなところで自転車にまたがっている同じ中学校の生徒がいたらちょっとぎょっとすると思うのだが、黒チャリは私がいることに気付いてチラ見した後は、まるで私がここにいるのが来る前からわかっていたかのようなそぶりだった。黒チャリのそんな態度に逆に私のほうがぎょっとしてしまった。


 黒チャリはジョギングコースに下りると、一度停止して私のほうをまたチラ見した。まるで競争を始めるから隣に並べと言っているようだった。私はとまどったが急いで隣に自転車を並べて、スタートの準備をした。

え?なんで?と考える間もなく黒チャリはまっすぐ前を見たまま小さな声で五、四、三・・・と言いだした。スタートの合図をするつもりだと私はすぐにわかった。マジか?

「二、一、ゴー!」

黒チャリの合図とともに私たちは勢いよく自転車をこぎ出した。やはり黒チャリの自転車にも変速機が付いていた。ともに一速でこぎだした私たちはそれほど差がなく走りだしたが、やや黒チャリが前を走っていた。ほとんど同じタイミングで二速、三速に変速した競争はこの後、脚力の勝負になった。二人とも立ちこぎで全力でペダルをこいでいた。私は今迄に無いスピード感を味わっていた。ジョギングコースの両脇に生えている背の高い雑草がもの凄いスピードで後ろに流れていく。最初の差がそのままで、黒チャリがやや前を走っていた。でもスピードは同じで、差は変化しなかった。息が切れて苦しい。それでも私はあきらめず、自転車通学に対する自分のプライドのため、持てる力をすべてペダルに込めて必死にこいだ。


 橋を渡るために土手の上にあがる道を過ぎたところで黒チャリはペダルをこぐのをやめて、スピードを落とした。その雰囲気を察した私は黒チャリの前に出たが同じようにペダルをこぐのをやめてスピードを落とした。そのポイントをゴールだとすれば、自転車一台分くらい私の負けだった。黒チャリが自転車を止めたので私も止めて振り返ると、黒チャリは私のほうをじっと見てふっと笑った様に見えた。そして引き返し、土手の上に上がって行った。私もあわてて後をついて土手に上がり、橋を渡って通学路に着いた。学校に着くまで黒チャリの三メートルくらい後ろを走っていた。学校に着いて自転車置き場に自転車を止めたとき、黒チャリがすれちがいざまに小さな声で

「けっこう速いじゃん」と言った。


 私はそのあと、いつものように授業そっちのけで今朝の出来事を振り返っていた。私が待ち伏せしていても黒チャリが全然驚かなかったこと。自然とレースが始まったこと。自転車一台分くらいの差ではあったが、私が負けたこと。その後、自転車置き場で黒チャリからけっこう速いじゃん、と声をかけられたこと。あれだけ通学で抜かれたことがくやしかったのに、レースで負けても不思議と悔しさはなかった。むしろすっきりした感じだった。自分に起きた出来事がすべて別の人に起きたことのような不思議な感じだった。

 何の教科だったかも覚えていないような印象の薄い授業が終わった後、茜が席にやってきた。

「今朝、自転車置き場で珍しい人と話してたね」

「えっ」

「四組の飯田瑞希さんと話してたでしょ」

「知ってるの?」

茜は意外と情報通だから、いろんなことを知っている。

「名前くらいだけどね。陸上部のエースらしいよ。それより菜奈こそ知り合いなの?何を話してたの?」

「別に。自転車置き場で良く会うからさ。おはよう程度のあいさつ。名前も知らなかったよ。陸上で何のエースなの?」

まさか自転車で競走した仲とは言えない。

「うーん、確か短距離か中距離だったと思うよ。結構速くて、県大会でも良い所までいったんじゃないのかなぁ」

「ふーん、そうなんだ」

どうりで自転車も速いわけだ。敵は毎日鍛えてるってことか。

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