放課後、悠里と茜と別れたあと、国道沿いの道を走り、自宅に向かう手前の交差点を曲がり、ある場所に向かった。そういえば黒チャリの家もこの辺なんだろうなぁと思いながら自転車を走らせていた。もちろん黒チャリの家を突き止めようなんてストーカーみたいなことを考えているわけではない。この辺にある自転車屋さんに向かっているのだ。自転車はホームセンターで買ったのだが、パンク修理なんかはいつも自宅から近い自転車屋さんに頼んでいるのだ。自転車屋さんは道沿い幅六メートルくらいがガラスのショーウインドウになっていて、中の様子が見える。所狭しと自転車が並んでいて、天井からも数台自転車がつりさげられている。壁には自転車のかごやバッグなどのアクセサリーがつるされている。いわゆる自転車おたくっぽいものは置いていない。普通の自転車と、最近はやりの電動アシスト付きの自転車が置いてある、普通の町の自転車屋さんだ。

お店の真ん中のぽっかり空いたスペースでいつものおじさんが大きな段ボール箱から出した新品の自転車を組み立てているところだった。

自転車屋のおじさんは髪が短くてひょろっと背が高く、無口だけど腕の良い職人さんって感じ。パパと同じ歳くらいと思うけど、パパと違ってくだらない無駄話はしそうもない、寡黙な感じ。

きょうび自転車をこういう町の自転車屋さんで買う人っているんだろうか。もちろんパンクなんかの修理の仕事はあるんだろうけど。まぁ余計な御世話だね。

 自転車屋さんに入るのをためらってお店の外から中の様子をうかがっていた。お店の外には無料で使える空気入れと電動アシスト自転車の試乗車が置いてあった。これに乗れば黒チャリより早く走れるのかなぁなんて考えていたら

「お譲ちゃん、パンク修理かい?」

私に気付いたおじさんがガラス戸を開けて声をかけてきた。私が返事をためらっていると、おじさんは私の自転車をちらっと見てパンクではないことに気付いたようだった。

「どこか自転車の調子が悪いのかい?」

「いえ、そうではないんです」

「じゃあなに、ひょっとして買い替え?」

「いえ、あの・・・」

私は次の言葉を出すのをためらった。そんなじれったい私の様子を見てもおじさんは特にいらついた様子もなく、ゆっくり私の言葉を待っているようだった。やっぱり暇なのかな。

「あの、私の自転車をもっと速く加速できて、スピードももっと速く走れるようにして欲しいんです。」

思い切って言うと、おじさんはぽかんとした顔をして私をじっと見ていた。時間が止まったようだった。それはそうだ。おそらく自転車屋さんにとって、初めて言われた注文だろう。しかも小さい男の子ならまだしも、中学生の女の子が自転車を速く加速できるようにしてくれだなんて。冷静になって恥ずかしくなり、自分の顔が赤くなるのがわかった。

「いえ、いいんです、すみません、さようなら」

私は思い直して自転車の向きを変えて、帰ろうとした。

「ちょっと待ちなさい、ちゃんと説明してごらん。」

おじさんは私を店内に入れて椅子を出してくれた。


 私は今迄のいきさつをできるだけ事実に忠実に説明した。私が自転車通学でコースを最適化し、誰よりも速く走れることに誇りを持っていることを話してもおじさんは決して馬鹿にしたり笑うこともなく、真剣に話を聞いてくれた。このおじさんになら全部正直に話しても良いような気がした。ある日、黒チャリに乗った同じ中学校の生徒になぜか追い抜かれたこと。学校の帰りに後をつけて大体の家の場所を突き止めたこと。そして今日、朝に待ち伏せして黒チャリの通学経路を突き止めたこと。そして川原のジョギングコースで信じられない加速とスピードで走っていたこと。そして自転車が何か違うんじゃないかと思い、ここに相談に来たこと。全て正直に話した。

 話をしているうちにうっすらと私の眼に涙がにじんできた。眼から零れ落ちこそしなかったものの、泣いてしまったことに自分自身が一番びっくりした。えっ、私はそんなにくやしかったのか?それとも話を聞いてくれたおじさんへの感謝の涙か?とにかく人に自分の心を打ち明けるのって、自分の心の再発見なんだなぁって、いまさらながら納得した。

自転車屋さんのおじさんはそんな私の様子にも表情ひとつ変えずに真剣に話に耳を傾け、そしてゆっくり話し始めた。

「くやしかったから、速く加速できてもっと速く走れるようになりたい、っていうことだね?」

わたしは今までくやしいとか、自分が本気になっているような感情表現は他人の前では決してしなかった。マジになっている自分は見せたくないからだ。マジになって出来なかったり、負けたりしたら言い訳ができなくなってしまう。それが嫌なのだ。でも今はそんなことにこだわってはいられない。本当に、本当に黒チャリには勝ちたいのだ。

「はい、その子より速く走れるようになれるのなら、なんでもしたいんです」

こんなセリフを言った自分に驚いた。

「多分、その子の自転車には変速機が付いていたんだと思うよ」

変速機付きの自転車は校則で禁止されていることを説明した。

「うん、お譲ちゃんが通っている学校は確かに変速機付きの自転車は禁止している。でもそれは、ほらこんなやつのことを言っているんだ」

おじさんが指さした先にはスポーツタイプの自転車が置いてあり、後輪のチェーンが掛かっている部分に六枚くらい、ギヤが付いていた。そしてチェーンがどのギヤにかかるかを調整する変速機が仰々しく取り付けられ、ワイヤーがくるっと付いていた。確かに小学生の時に乗っていたマウンテンバイクにはこんなのが付いていたっけ。

「こういうのをアウター式のディレーラーって言うんだ。あ、ディレーラーって言うのは変速機のことね。アウター式って言うのは外に付いているってことかな。とにかく、こういうのは禁止されているんだ。だけど、こっちの、こういうのは良いことになっているんだよ」

おじさんは今度は別の自転車を指さして説明を始めた。その自転車は見かけは私の自転車と同じだった。ただ、よく見ると後輪の車輪のまんなかの軸は太めで、ワイヤーが取り付けられていた。

「こういうのはインナーディレーラーって言って、変速機の機械が外に出ていなくて、車軸の中に入っちゃっているんだ。こういうのはチェーンが外れる心配もないし、スカートのすそなんか挟まれることもないから、安全っていうことで良いことになっているんだ」

確かにワイヤーが付いている以外はすっきりしていて私の自転車と見た目は変わらない。変速機が外に出ていることが禁止されていたのか。やっぱり校則ってわかりにくい。

「これが付いていれば三段の変速が出来るから、お譲ちゃんが説明してくれたような加速、つまりスピードを急に上げることも出来ると思うよ」

おじさんは説明を続けた。加速って、そういえば理科で習った記憶がある。えーっと、速さの上がり具合をいうんだっけ。うん、そう言われてみれば黒チャリにもこれが付いていたのかもしれない。これがあれば勝てるかもしれない。欲しい、欲しい、絶対欲しい。このインナーなんとかっていうやつ。

「欲しいの?」

気持ちが思いっきり私の表情に出ていたらしい。

「これがついている自転車っていくらくらいするんですか?」

私はとっても欲しい、はやる気持とは逆におそるおそるゆっくりと聞いてみた。

「うーん、そうだな。うちはメーカー製の自転車しか置いていないから、一番安くって三万円ってところかな」

私は思いっきり後ろにのけぞりそうになった。とてもそんな大金、払えない。その気持ちも思いっ切り表情に出ていたようだ。

「よその店の宣伝をするのもなんだけれど、ホームセンターなんかで買えば一万円ちょっとであると思うよ」

私の表情を見て、たぶんおじさんなりの精一杯のフォローの言葉なんだろう。でも一万円ちょっとっていうのも、私にとっては逆立ちしても無理な金額だ。仕方ない、とりあえず帰ろう・・・

「おじさん、いろいろ教えてくれてありがとう。今日はこれで帰ります、さようなら」

そう言った私におじさんはすかさず聞いてきた。

「で、どうするの?あきらめるの?」

私はその質問には答えずにぺこりと頭を下げておじさんのお店を出て、自分の自転車にまたがろうとした。するとおじさんはお店の外に出てきて私の自転車を見てこう言った。

「ひとつ提案がある。いつもはこんなことはしないんだけど、特別に中古のディレーラーをお譲ちゃんの自転車に付けてあげても良いよ」

私はその提案にびっくりした。理由はどうあれ、そんなことをしてもらえるのはとっても都合が良い。自転車の見た目もそうは変わらないだろうから、パパやママにとやかく言われる心配もない。でも、いくらくらいでやってくれるんだろう。パンク修理でさえ千円もするんだからなぁ。

「あのー、中古って言ってもタダじゃないですよね。いくらくらいでやってもらえるんでしょうか?」

「中古の部品代が千円、工賃が四千円でトータル五千円って言うところかな」

うーん、五千円も正直言ってつらい。少なくとも今すぐやってと言える金額ではない。考え込む私と、その表情をうかがうおじさんとの間にちょーびみょーな空気が流れた。

 私の考えていることを見透かしたようにおじさんはしゃべりだした。

「中学生のお嬢ちゃんじゃ、五千円はきついよね。そこでおじさんに提案がある」

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