第1部 第21話 5つのマグカップ

 5人は合奏が一段落したところで休憩をとることにした。


 吹奏楽部の楽器が保管されている楽器庫の片隅のテーブルに、電気式のポットと、ティーセットが載っている。


 先日まではその傍らにマグカップが4つ並んでいたが、その横に、5個目の真新しいマグカップが増えていた。


「はい。沙希さんに、私たち4人からの入部祝いのプレゼントですわ。」

「睦先輩。カナ先輩、みうさん、ちーさんありがとうございます。」


 白いマグカップには、少し眠たそうな目をした小さなリスが、パステルピンクで描かれている。


「沙希に似てるだろ?そのリス。4人で雑貨屋に見に行った時、全員一致ですぐに決まったんだぞ。」

 千晶が楽しそうにけらけら笑う。


5人分の紅茶を、ティーポットからマグカップに注ぎ終わった睦が声をかける。

「それにしても沙希さん、この2週間でものすごく成長されましたね。音域はグングン広がったし、音色もずいぶん透き通ってまいりました。」

「ほんとだっち。先週の月曜日から人が変わったみたいに。一体何があったっち?JKが急に変わるといったら恋か?恋なのか?」

「あら。それは聞き捨てならないわね。私というものがありながら…」

「だから、カナ先輩とはまだ何もしてませんよね?」

「まだ、ということは、これから先に期待して良いという言外の意味ね。楽しみにしておくわ。」


 もはや、奏のフリと沙希のツッコミは日常のやりとりになりつつある。


「実は、マツバ楽器にマウスピースを買いに行ったとき、優美に偶然会ったんです。」

「優美さんって、前に話してた沙希ちゃんの同級生のホルン吹きさんかしら?」

「はい。」


 沙希はあの日の優美を思い出し、暗い顔をした。


すると、ティーポットを片付けていた睦が急に振り返った。

「それって吉川さんですわね。」

「え!睦先輩、優美のこと知ってるんですか?」

「私、中学校でも吹奏楽部でしたので。」

「あ、睦先輩も秋陽中なんですか。」


 帰宅部だった沙希は上級生の顔をほとんど知らないので、睦とは渡久山高校で初対面だったが、言われてみればそれは充分あり得ることだった。


「吉川さんは、中学生で吹奏楽部に入った時点で、既に中学生離れしたホルンの腕前でした。確か、H県のマツバ楽器でプロにレッスンを受けていたはずです。」

「そっか。それで店員さんと顔見知りだったんだ…」

「その吉川さんと、何かあったのかしら?」


 中学の吹奏楽部での優美のことを、睦に詳しく聞きたい。しかし、あまり深い話になると、優美のことをここで話さなくてはいけなくなる。本人の知らないところで優美の苦悩を明かすのは憚られた。


「詳しくは言えないんですが…優美、O県にある学芸院高校ってところに進学して。こっちには全然帰って来ないつもりみたいなんです。」


 学芸院高校という名前が出た瞬間、4人は顔を見合わせた。


「学芸院に行ったのかそいつ…すげえな。」

「あれ。知ってるんですか?県外の高校なのに。」

「知ってるも何も、吹奏楽をやってるヤツで学芸院を知らないヤツはいないぞ。全国屈指の進学実績を誇る超難関進学校にして、吹奏楽部は吹コン全国大会常連。」

「そう…吉川さん、学芸院へ進学されたのですね。渡久山高ではなく。吉川さんの成績なら間違いなく渡久山高に来ると楽しみにしていたのですが。」


 少し悲しそうに睦がいう。

 睦の話を聞き、この話をすべきかどうか悩んだが、沙希は打ち明けた。


「実は私、渡久山高は補欠合格なんです。一人だけうちの入学を辞退した人がいたお陰で合格できたんですけど、それが優美なんです。」


「え…」

「そういうことでしたか…」


 沙希の話に4人が息を飲む。


「私がここにいられるのは優美のおかげなんです。でも、今、優美はとてもつらい状況にある。O県じゃあ会いに行くのも難しいし。」


 苦しそうに唇を噛みしめて、沙希は続ける。


「マウスピースを選んでもらったあと、カフェで優美と話したんですけど、優美はもう、将来的にも渡久山に帰ってくるつもりはないみたいで。それが悲しくて。」

「そうでしたか…吉川さんがそんな事を。親友の沙希さんにそれを言うからには、よほどの事がおありなんでしょう。」


 同じ中学校で一緒の吹奏楽部にいた睦には、優美と様々な思い出があるのだろう。いつも穏やかな睦の顔に、めずらしく陰りが見える。


「私がO県まで無理して行って優美を訪ねても、今の状態の優美が会ってくれるかどうか。だけど、音楽を通してなら、きっと通じ合えるんじゃないかって。アンサンブルコンテストに出て、私の音を聞いてもらったら優美に何かが伝えられるんじゃないかって。どんな小さなことでもいい、優美に何かしてあげられたら…」


 復讐の思いに取り憑かれた優美の暗い目を思い出し、沙希は視線を落とした。


「なるほど。それでこないだからあんなに基礎トレーニングやってたってワケか。んで、さっきの初合奏であんなに凹んでたんだな。」


 千晶は沙希と初めて会ったときから変わらずぶっきらぼうな態度だが、沙希の真っ直ぐな思いに心打たれたようだ。


「よしゃ!沙希!アンコン出るぞ!んで、そいつに沙希の想いをステージからぶつけてやれ!」

「はい!」


 力強い千晶の言葉に、これ以上なく励まされた沙希。


 しかし、意外にも他の3人の反応は鈍かった。

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