第1部 第18話 優美の背中

 翌週月曜日の放課後。沙希は、先輩部員の誰よりも早く練習に来ると、楽器を準備し、優美に選んでもらったマウスピースを楽器につけた。


「優美…」


 優美に選んでもらったマウスピース。このマウスピースがあれば、あの時の優美を感じられる。あの、負の感情に取り憑かれた優美を何とかしてあげたい。うぬぼれかもしれないが、それができるのは自分だけのような気がするのだ。


 沙希は、重要ではあるが退屈な基礎トレーニングに、それこそ目の色を変えて取り組んだ。この練習のずっと先に、きっと優美がいる。


 練習が始まってから1時間あまり。いつもなら、


「そろそろお茶でもいかがかしら?」


 と睦が声をかけてくる時間だが、鬼気迫る沙希の様子に、邪魔しては悪いと思ったのか、今日は遠くで見守っているだけだ。


 その後も一向に音が止む気配がなく、さすがに千晶が奏に言った。

「カナ、沙希のやつ、なんかあったんじゃねえか?なんか様子おかしいぞ?」

「何かあったようね。先週と目がまるで違うもの。」


 奏は嬉しそうにほほ笑んだ。


「ちょっと休ませた方がいいんじゃねえか?」

「大丈夫よ。今のあの子、ものすごい集中力を発揮しているもの。自分の呼吸の様子と、その結果出た音を、高い精度で感じ取っているわ。ずっとスケール(音階練習)をやっているけど、一度ごとに、音がどんどん磨かれていっている。私たちもうかうかしていられないかもよ?」


(優美…)

 優美に近づきたい。優美が、音楽を通して見ている世界を知りたい。その先に、優美と両親の確執を解消する方法がある気がするのだ。


 沙希が基礎トレーニングに励むようになってから2週間あまり。沙希は学校にも、部活にもずいぶん慣れてきた。


 優美のことが気にかからないわけではない。だが、理由はどうあれ、今の優美は自立して学校生活を送れている。何より、優美は沙希よりよほどしっかりしているのだから、今の沙希にできるのは、沙希自身がしっかりすることだと思ったのだ。今、優美に連絡しても、逆にこちらの心配をされるのがオチだ。


「沙希ちゃん、ずいぶん音が出るようになってるっち。そろそろ合奏に入れてみる?」

「そうですわね。1人でないとできない練習もありますが、1人では身に付かない事がありますもの。」


 渡久山高校吹奏楽部にとって、沙希が合奏に入ることは、新たな楽器が加わること、そして、新たな音色が加わることを意味する。上級生4人も、この日を待ち焦がれていた。


「沙希ちゃん、この後ちょっといいかしら。」

「はい。」

「この後、金管五重奏の合奏するんだけど、入ってみない?」

「私が、センパイ達と?」

「楽しいぜ〜!アンサンブルは。なんか、一体感?ての?が凄くて。あ〜、なんてーか。やらなきゃわかんね。こればっかりは。」 

「やりたいです!いえ、やります!」

「そう来なくっちゃな!」


「さって!何をるかな。」


 手持ちの楽譜をパラパラめくりながら千晶が言う。その様子はまるで、新しいおもちゃを与えられたばかりの子どもが、どのおもちゃで遊ぶか目移りしているようで、さっきまで思いつめて練習に没頭していた沙希も思わず笑みをこぼした。


「あん?なんかおかしかったか?」

「いえ、ちー先輩って本当に、アンサンブル好きなんだなあって。」

「そりゃな。オレだけじゃなく、カナも、みうも、睦ももちろんそうだろうし。」

「アンサンブルって、普通の合奏と比べて楽しいんですか?」

「そりゃー、興奮するぜ?何しろ、自分と同じ楽譜吹いてるやつが他に絶対にいないんだからな。ばっちり決まってたら100%自分の手柄。その分、失敗していたら100%自分の責任。普通の吹奏楽の合奏だったら、『あ、ここはやべえな』ってとこがあったら吹いてるフリしとく手もあるが、アンサンブルでそれやったら音が無いからな。絶対バレる。音楽だから、失敗してもやり直せない一発勝負。ヒリつくだろ?」


 トロンボーンのスライドにたまった水を抜きながら、千晶はアンサンブルの様子を思い出してニヤついた。


 楽しくて仕方がない、という千晶の表情をよそに、人生初の合奏に臨む沙希の緊張した面持ちに気づいたのか、奏が沙希をわざとらしくじっと見つめながら言う。


「沙希ちゃんの初体験だもんね。いい思い出になるようにしてあげないと。」

「カナ先輩、それは完全に、彼女の処女もらおうとする時の、男のセリフですよ。」


 沙希がジト目で奏を見る。


「あら。沙希ちゃん、にずいぶん詳しいのね?もうちょっと詳しく聞かせてもらおうかしら。後学のために。」


 ちなみに、沙希のこのあたりの知識は99%マンガやゲーム発の知識なので、本当にそんなことを言う男がいるのかは知らない。


「それはともかく、沙希さんにも楽しんでもらえるような楽譜がよろしいですわね。テンポがゆったり目で、音の高さも無理がない曲…これ、いかがかしら。」


 睦は自分のスクールバッグから、A4のコピー用紙の束を取り出した。その束には表紙や包装が何もついていない。


「お。睦、また楽譜起こしたのか?」

「楽譜起こすってどういうことですか?」

「睦は耳コピが得意で、聞いた音楽をすぐに楽譜にしちゃえるのだ。んで、それを金管5重奏用に編曲してきたっち。」

つたない出来ではありますが、沙希さんの力量に合わせた楽譜が用意できるのが何よりかと考えまして。」

「あ…ありがとうございます!」

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