第1部 第17話 沙希の決意、優美の決意

「うっ…うっ…」


 知らず知らずのうちに、沙希の目から大粒の涙がこぼれる。


「優美は何もかもを手に入れていてうらやましい」「神様は不公平」


 優美に、なんの気無しにそんな言葉をかけてしまった。沙希から見えていた「何もかも」を手に入れられたのは、優美自身の不断の努力の賜物たまものだった。それを、神様からもらったかのような言い方をしてしまった自分。そして、そんな努力をしてこなかった自分は、優美が「欲しかったもの」を何もしなくても手に入れていた。


 沙希の両親は、沙希の考えを尊重してくれる。今回の高校受験だって、成績ギリギリの自分の渡久山高とっこう受験を認めてくれた。そして、そこからは一心に沙希の受験を後押ししてくれたのだ。


 もしも、渡久山高に合格できなくても、両親はすべり止めで受けた高校について悪く言うことはなかっただろう。それがわかっていたからこそ、沙希は渡久山高を受ける勇気が湧いたのだ。


 知っている人が誰もいない場所で、優美が不安ではないはずはない。心がつぶされそうなそのプレッシャーを、優美は両親への復讐心で押し返している。


「ね、だから沙希は、渡久山高で思いっきり高校生活を楽しめばいいの。私が渡久山高に行っていたら、復讐が果たせないんだから。」


 泣き続ける沙希を優美はなだめる。周りの客にまで聞こえるような声で泣いてしまい、沙希はなんとか泣き声を押し殺しながら言った。


「でも、私は嫌。優美が、高校生活を、いや、もしかしたら、その先もずっと、復讐心を糧にして生きていくのは嫌。私の頭を毎日撫でても、私の胸、毎日揉んでもいいから帰ってきてよ。」


 泣き顔を周りの客に見られないよう、下を向いたままの沙希は声を震わせながら懇願する。


 しかし、優美の口調はさっきの穏やかな口調とは一変した。


「いくら沙希のお願いでも、それはできない。ここで渡久山に戻ったら、私の気持ちは永久に晴らせない。連休や夏休みも、渡久山に帰るつもりはない。」


 下を向いたまま語るその声色で、その決意の強さが分かる。


「そんな…それじゃ、この先ずっと、優美とは会えないってこと?」


 Y県とO県は新幹線で行き来できるとはいえ、その交通費は高校生になったばかりの沙希にどうにかできるようなものではない。親にお願いするとしても、優美に会うためだけに再々交通費をお願いすることは無理だろう。

 お互い通っているのが進学校だから、大学に進学したら、ますます遠く離れてしまう可能性が高い。

 二人の地元に大学はそれほどないし、今のままの優美なら、そもそも地元の大学は選ばないだろう。

 願いが次々に打ち砕かれて、沙希は打ちひしがれた。


 このままどれだけ話しても、きっと優美の決意は変わらない。沙希には優美に会いに行くこともできない。この話を聞いた以上、無理して優美に会いに行ってもぎくしゃくしてしまうだけだろう。

 二人の話は進まなくなった。代わりに、優美が部活の話を切り出す。


「沙希は夏のコンクールに出るの?」

「うちの高校、部員5人だから。私入れても。」


 テレビ番組で有名になった吹奏楽コンクール、通称吹コンは、日本中の中高生が全国大会を目指して激しくしのぎを削る、いわば吹奏楽の甲子園だ。


 だが、全国大会につながるのは出場メンバーの上限55人という大人数で競われる部門のみ。部員5人の渡久山高校はコンクールに出場する予定はない。


「そっか。んじゃあ、アンコンは出るの?」

「アンコン…?」


 吹コンが夏の甲子園なら、アンサンブルコンテスト、通称アンコンは、冬の甲子園だ。


 吹コンと違い、指揮者を入れることは許されず、少人数で演奏する。吹コンでは同じ楽譜を何人かで吹くこともあるが、アンコンでは一つの楽譜は一人で吹かなくてはならない。より、個人個人の力量が問われる大会だ。


「優美は?」

「うちの高校の吹奏楽部はアンサンブルに力を入れているから、出るわ。私はもう、アンサンブルのチームに入ってるし。」

「私…出る。アンコン出るよ。そこで、優美と同じ舞台に立つ。」


 自分の力で、自分の努力で何かをしたいと、こんなに強く思ったことはなかった。


「優美…待っててね。アンコンで会ったら、私の演奏、聞いてほしい。」

「うん。待ってる。沙希ならできるよ。きっと。」


 優美が、この日初めて、沙希の知っているいつもの優美の顔になった気がした。

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