シオとティア
シオがルイという少女に拾われたのは、彼女が子猫の頃だった。
兄弟と比べて成長の遅かったシオは、兄弟からどんくさいと厄介者扱いをされることもあったが、その頃はまだ母の愛情はあったのだと思う。
成長が遅かった理由は、今だからこそわかる。それはシオが先祖返りとして、魔族の猫として産まれ落ちてしまったから。
シオが人のそれと同じ時間尺で流れているのに対し、兄弟や母は猫のそれだったのだ。
始めは気にかけてくれていて母も、次第に異様さに気付いたのだろう。
気が付けばシオは、町中に置き去りにされていた。
幼心に、このまま生を終えるのだろうかとぼんやり思ったころに、少女が――ルイが手を差し伸べてくれた。
◇ ◆ ◇
必ず、話しに戻るから、だから――。
それが、ティアがシオとの別れの間際に口にした言葉。
それなのに、再会したと思えば眠っている。
それもいつ目覚めるかわからないときた。
ティアを凝視するシオのカッパー色の瞳、それが据わる。じわりと滲み広がるのは、苛立ちか怒の色か。
つかつかと歩み寄るシオのあまりな不穏な空気に、ジルは静かにその場所を空けた。
ティアとはなんとなく何かがあるのを、彼は知っている。
シシィはシシィで、その不穏なシオの空気に緊張を隠さないが、彼女に害する気がないことは察しているために困惑気味だ。
そんな二者の反応には構わず、据わった目をしたシオは、シシィの腕の中で眠るティアを見下ろす。
「あたし、あんたに訊きたいことがたくさんあるの」
それはもう、たくさん。
なぜルイと同じ容姿を持っているのか。
それならば、ティアという存在はなんなのか。
シオを知っているような口ぶりだったのは――どうして。
「あんたは、“ルイ”なの――?」
苦しげでいて、寂しげな声がシオからこぼれ出る。
それはずっと、あの時からずっと、心の奥底に埋もれ疼いていた問いかけで。
「――って、本当は訊いて問い詰めてやりたいとこだけど、いくらあたしでも状況はわかってるつもり。今はそんなことに時をかけてる場合じゃないんだよね?」
ティアは眠ったままで応えない。
「だから、さっさと起きなさいよ。それで、あたしにとっとと教えなさいよ――ティア」
まくし立てるように告げたのち、シオは一呼吸を置いて名を紡ぐ。
彼女の声は震えていた。けれども、切に揺れて――祈りをまとう。
刹那。突風が吹き抜けた。
人が集まり、喧騒が大きくなり始めていた屋敷外のそれが、突然吹き抜けた突風に一際大きくなる。
驚きに染まった喧騒は、次第に少しばかりの畏怖の色をはらみ始める。
風が吹いてもささやかな微風程度だった土地に、突として突風が吹き抜ければ、人々が恐れを抱くのも然り。
その風は、何かを呼んでいるようで――。
「――ちあ……?」
突風を訝しんでいたシシィが、自身の腕の中へ視線を落とす。
大切に抱き込んでいた彼女が、僅かに身動いだ気がした。
「……ちあ――ルゥ」
もう一度名を呼び、彼女の愛称を口にする。
身を丸め、抱え込むようにして自身を彼女を寄せた。
『起きて、ルゥ』
ささやきを落とせば、今度こそ間違いなく彼女が身動いだ。
『――……距離、近いわ……』
ティアから上がった厭うような声にシシィは顔を綻ばせ、薄ら開いた琥珀色の瞳に、そんな彼の顔が映る。
厭うような声をもらしても、そこに照れが混じったそれなのは知っている。
『いつもこうやって、起こしてるじゃん』
『そ、それはそうだけど……』
ティアは声が尻すぼむと、言葉が絡んで口ごもってしまった。
確かに海街で暮らし始めてから、同じ部屋で寝起きし、朝は彼がこうして起こしてくれていた。
白狼姿の彼に包まれ眠るのが常だったのだが、あの頃とは彼との関係も距離も変わってしまっている。
『今までとは違うんだもの。照れるなっていう方が無理よ……人の姿だと、その、この起こし方は、威力があり過ぎるし……』
ぶるりと身体を震わせると、ティアは瞬時にシシィの腕の拘束から脱け出す。
一度その場でふわと旋回したのち、地に足を付けた時には、彼女は少女の姿へと転じていた。
その弾みで、緩く編まれ背へと流す白の髪が跳ねる。
琥珀色の瞳は瞬き、手を結んでは開き、腕を動かしてみたりする様は、身体の調子を確かめているようで。
『だいじょーぶ?』
『うん、大丈夫』
シシィの問いに振り返った彼女は、彼へ笑いかけて応えた。
そうしてティアは、呆然とした面持ちで見上げるシオへと向き直る。
膝を地に付けて屈むティアに、シオは反射的に前足を炸裂させそうになり、前足を持ち上げたところで堪える。
ティアがそんなシオへ、すっと人差し指先を差し出す。刺激しないように、なるだけ下方から。
「……」
シオがゆっくりと近付く。ティアの指先に鼻先を付け、そして気付いてしまった――知ってしまった。
はっとしたようにカッパー色の瞳を向ける。
ティアが少しだけ困ったように、寂しそうに、申し訳なさそうに、眼尻を下げて淡く笑う。
「……私は“ルイ”じゃない」
それはシオが問うたことへの答えだ。
シオの身体が縮こまり、尾が身体に沿って丸まる。
知っていた。わかっていた。
「“ルイ”はあの時に死んだわ」
決定的な言葉を紡ぐティアの顔をシオは見れなかった。
俯き、ぐっと前足に力が入って、飛び出た爪先が地に線を引く。
ルイと同じ顔。ルイと同じ声――けれども、それだけ。それだけなのだ。
その事実がシオの胸をきりきりと締め付ける。
「……もう本当に、ルイはいないんだね」
当たり前だ。看取ったのは自分だったではないか。
自嘲気味な笑みが浮かんだ。
刹那。あたたかな手が喉元を撫でる。
的確に突く、シオのイイトコロ。優しい手付きに、的確に突くその動きはシオを知り尽くしたそれ――なのに、この手はルイではないのだ。
じんわりとシオの目頭は熱を持ち、カッパー色の瞳は潤む。
瞳に膜が張り始め、このままでは涙になってしまうと慌てた時だった。
「でもね」
琥珀色の瞳が真っ直ぐにシオを見やる。
「あなたとルイの昔話はできる。私は、ルイが最期に流した涙の熱さを知っている――だから私は、
シオは息を詰まらせた。
瞬くことも忘れたカッパー色の瞳に、涙が溜まっていく。
それをティアは指の腹で優しく拭った。
彼女の柔らかく笑む表情が、シオの記憶の中のルイと重なる。
髪の色が違う。瞳の色が違う。自身に触れる感触が違う。なのに、ぬくもりが、優しさが重なる。
その事実だけで、もうシオは充分だった。
「……今度、テディとも昔話を――」
声を詰まらせるシオに、うん、とティアは優しく頷いた。
自らの手を見下ろし、その手を握ったり開いたりを繰り返して、よしっ、とティアはひとつ頷いた。
調子がすこぶるいい。それはきっと――ちらりと遠目にシオを見やる。
あぐらをかく少年へと変じたジルの膝上で、彼に喉元を撫でられながらごろごろと喉鳴らす姿に、柔く目を細めた。
「そっか、シオは精霊以外で私の本質を知っている唯一の存在。だから、私の“唯一”になり得る存在なんだわ」
だから、こうも確かな――。
「……ちあ、大丈夫?」
と、隣からの心配そうなシシィの声がして、ティアは彼の手を取って振り向いた。
「ほら、わかる? 私、ここに来てから一番調子が良いのよ」
「わかるって言えばわかるけど、ちあの大丈夫は安心出来ないし……」
と、シシィは一瞬だけ考える素振りを見せてから、こうすればわかるよね、とティアの顔を覗き込み、彼女の方へ手を伸ばすして頬に指を滑らせる。
へ、と身体を硬直させた彼女へ、彼は流れるような動作で軽く口付けた。
瞬間、ティアはシシィの手をぎゅっと握り込む。
「まあ、確かに調子は良さそうだね」
顔を離したシシィが、頬を朱に染めたティアへ笑いかけた。
「でもっ、だからって、別にっ、手で触れればシシィならわかるでしょ?!」
「えー、わかんないから口づ――って、ごめんなさい。手で触れただけである程度はわかります。ちょっと調子にのりました。すみません。だから、手に風をまとわせないで」
頬は染めたままだが、ティアの眼光は鋭く、手にまとった風は刃の如く尖る。
あれで彼女に風穴あけるわよと言われては、震え上がって震えて震えるに決まっている。
手を挙げて降参の意を示す。
「ごめんなさい」
「……急に距離を詰められても、私も戸惑いの方がまだ勝るというか……その……、もう少し、ゆっくり……」
風の刃を収めたティアは、顔を俯かせたままで目だけをシシィを見上げた。
その上目にぐっと言葉を詰まらせながら。
「………………うん。わかった」
シシィはなんとか応えるが、それでもこれだけは伝えねばと口を開く。
「でも、もう僕決めたからね」
「……なにを?」
「真っ直ぐ伝えるって。考えて深みにはまってすれ違うの、もう嫌だから」
だから、知っていてね。
緩い笑顔を向けられ、今度はティアが言葉を詰まらせる。
「…………了解、です」
なんとか絞り出した声は、か細かった。
そんな和やかな空気が漂っている最中だった。
『お前ら、探したぞっ!』
突として降り落ちた、怒気はらむ声。
ばさりと強く羽ばたく翼の音と共に、風が叩きつけられた。
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