シシィとニニ(2)
「……せいれいさまはだいじょーぶだった。ににね、ずっとしんぱいしてた」
そう言って自室へと招き入れたニニは、心底安堵したという表情でシシィを振り返る。
「……心配って、なにが?」
警戒心を持ちながら、シシィは形だけでもと首を傾げて見せた。
ニニは部屋の中央部までとててと駆けるなり、ぼすんっとソファに勢いよく座った。
いつもならエルザに怒られちゃうなと、彼女はご機嫌に笑う。
何がそんなに楽しいのだろうか。
ここに招き入れたニニの意図が読めなく、シシィは戸惑いを覚える。
「せいれいさまも、ここすわって」
ぼふんぼふんとソファで弾むニニが、手招きをしてからラグを指差す。
廊下のカーペットよりも毛足は長く、ふわふわそうな布地が高級感を漂わせる。
「……いや、僕はここでいいよ」
気後れから断ると、ニニが目に見えて不機嫌になった。
まさか自分の申し入れを断わる気なのだろうか。
信じられないといった表情だった。
「ここ、すわって」
口を尖らせる様は、幼子だから愛らしく見える。
だが、彼女はいろんな意味でお嬢様なのだなと、シシィは静かに思った。
このまま不機嫌になられるのは嫌だなと、渋々ではあるがラグに座ることにした。
毛足の長いそれは、やはり足裏がぞわぞわとする。
何とも言えない感覚が表層に出ていたのか、不機嫌増しだったニニがころころと笑った。
どうやら、機嫌はなおしてくれたらしい。
彼女はソファから飛び降りると、シシィに飛び付いて寝転がるようにと促す。
今度はシシィも素直に従ってラグに寝転がると、ニニは彼の横腹へと回り込んでころりと寝転んでしまう。
これには虚を突かれ、シシィは身体を強張らせた。
それを肌で感じたのだろうニニが、可笑しそうに小さく笑う。
「ふふっ。えるざにはようをいいつけたの。だから、しばらくはもどってこないよ」
だから、緊張などする必要はないよ。
と、言外に伝えたいのだろうが、それは難しいというものだ。
会って互いに間もないにも関わらず、これだけに急速に距離を詰められてしまえば、疑心もするというもの。
それをこの幼子はわかっているのかと、シシィは嘆息をそっともらす。
ニニは警戒をする素振りも見せずに、シシィの柔い体毛に無邪気に頬を埋めている。
彼女だって、この瞬間にもシシィが牙を剥くかもしれない、とは万が一にも思ってはいないのだろう。
何とも呑気な顔だ。
やっぱりお嬢様なんだなと、シシィは呆れにも似た感想を胸中に抱く。
「――ねえ、せいれいさま」
そんな時、突としてニニがシシィを呼びかけた。
柔いシシィの体毛に頬を埋めながら、ニニは彼の顔を見上げる。
「ににとむすんで……?」
シシィの碧の瞳が瞬く。
言われた言葉の意味をすぐには解せなかった。
「……え? むすんでって、結びのこと……?」
問い返せば、こくりとニニがゆっくりと頷く。
途端、シシィの身体が硬直し、一瞬身構えかける。が、ニニの瞳にはある種の欲望は見えなく、すぐに身体から力が抜けた。
彼女は精霊欲しさにシシィと結びを得たい様子ではなさそうだ。
この領都は精霊灯を始めとして、精霊を軽んじた扱いが目立つ。
ゆえの彼なりの警戒であったが、ニニはどこか違う気がする。
だから、シシィも真摯にニニへ答えを返す。
「ごめんね。僕にはもう、心に決めた子がいるの」
と言葉にして、はたと碧の瞳が瞬いた。
あれ、言葉選びを間違えた気がする。
言い直そうかなとシシィがニニを見やると、彼女の瞳に気落ちの色が滲んでいた。
伝わっている様子にほっとする。
しかし、ニニの方は目を伏せてしまう。
口を引き結び、しばし黙り込んだのちに、もう一度顔を上げた。
「やっぱり、だめ……なの……?」
諦めきれないという強い意志の色が、ニニの瞳に宿っている。
碧の瞳に緊張の色が宿る。
ニニは大丈夫だと思った。それは今も変わらない。
それでも、食い下がってくる様子の彼女に、警戒の色が滲み始める。
目的はなんだ。やはり精霊を、自分を欲しているのか。
そんな欲望はニニからは窺えなかったし、今も感じられない。
けれども、ただのお嬢様のわがまま、と片付けるには意志が強い気がする。
ニニの思惑が読めない。
じり、とシシィがゆっくり後ずさる。
シシィの様子の変化に気付いたニニが、引き留めようと、すがるようにして慌てて手を伸ばす。
だが、その前にシシィが大きく飛び退る。
険の宿る鋭い瞳がニニを睨んだ。
完全にシシィへもたれていたニニは、支えを失ったことで倒れ込む。
ラグ上だったこともあって身体を打ち付けることはなかったが、身体を起こした際に、シシィの険の宿った瞳に身をすくませた。
ひくりと息を呑み、初めて向けられる敵意に涙が滲む。
無意識にエルザを探したが、自分が追い出したことを思い出して、涙が溢れた。
うわあんと感情のままに泣き叫べたら楽だったろうに、それでも、ニニは自分の立場を知っている。
ここで泣き叫べば、騒ぎとなり、部屋に私兵らが入ってくるだろう。
そうすると、シシィの存在が知られてしまうかもしれない。
それは避けたかった。
「……にに、せいれいさまを、まもりたいの……」
ぽつりと語り始める。
「……おにいさまと、おばばさま……ににがしらないとこで、わかんないことしてる……」
それはたぶん、褒められることではなくて。
「……せいれいさまも、おにいさまたちにみつかったら、だめなの……。だから、ににとむすんでたら、なにもされない……」
兄も老狼も、とてもニニを大切にしてくれている。
だから、そんなニニと結んだ精霊ならば、他の精霊のように、どこかへ連れて行くことはしないだろう。
そう思った。
「……だから、僕と結びたいって言ったんだね」
穏やかなシシィの声に、ニニはこくりと小さく頷いた。
そして、溢れた出てきた涙のせいか、ニニは静かにしゃくりあげ始める。
それに慌てたのはシシィだ。
飛び退った分を慌てて詰め、俯くニニの顔を覗き込む。
「ああああ、どうしよ。泣かないで。……君の気持ちには応えられないけど、君のその精霊を想ってくれる気持ちは嬉しいよ」
涙の溢れたニニの瞳が、のろのろとシシィを見上げる。
「だから、ね? 泣かないでよ。僕、どうすればいいのかわかんないよ」
おろおろと泳ぐ碧の瞳。
それが困り果てた様子でニニを見る。
先程の敵意に満ちた瞳はなく、あたたかみのある瞳に安堵して、ニニは一気に顔をくしゃりとさせた。
求めるように幼子の小さな手がシシィへ伸ばされ、顔を柔い体毛へと埋める。
シシィの身体が硬直するのも構わず、ニニはぐりぐりと顔を押し付けた。
泣き声はくぐもり、室内には響かない。
これなら、部屋の外にも聞こえないし、大丈夫だろう。
そう思うと、ニニはもう泣き止むことが出来なかった。
怖かったのだから仕方ないのだ。
そう自分に言い聞かせ、ニニは思いっきり泣いてやる。
シシィはそんな彼女を見下ろして。
「ええ……どーしよぉ……」
情けない声をもらすのだった。
◇ ◆ ◇
「――い。おい、君」
誰かの声に意識が浮上する。
のそりと身体を起こし、あちこちに打たれたような痛みを感じ、いてて、と思わず声をもらした。
銀灰色の髪を苛立ちに任せて掻き上げ、その頭に普段から巻いているターバンがないことに気付く。
「……あれ、どっかで落としちまったか」
薄暗い中、紅の瞳が不機嫌に瞬いた。
しぱしぱと数度瞬く間に、暗がりに慣れてきた目に格子が映り込む。
「――って、は……? 檻……? なに俺、囚われの身ってやつ?」
手を伸ばし、格子を掴む。
意味もなくがたがたと揺すってみるも、当たり前のようにびくともしない。
「……なんで」
紅の瞳を細め、記憶を手繰る。
もやのかかったようなそれが、次第にはっきりとしてきて。
「……ああ、そうだ。俺、なんか知らねぇ奴らに捕まったんだ」
軽くかぶりを振る。
まずは落ち着こうかと、その場にどかりと腰を落着けた時だった。
「――君、僕の声が聞こえてるかい?」
隣の檻から声がした。
あぐらをかいたままに振り向く。
「……誰」
「ああ、やっと返事が返ってきたよ」
その相手はやれやれと息をつく。
「不本意だが、今はクッションと名乗っておこうかな」
「……は?」
隣の相手はふざけているのか。思わず顔をしかめる。
「仕方ないだろう。僕は名も持たない野良だったのだから、今は同檻の彼から呼ばれる呼び名しかないのさ。だから、今はそう呼んでもらって構わない」
呼んでもらって構わないとは、随分と気位のある物言いだな。
それなのに、その呼び名がクッションとは――どこから突っ込めばいいのやら。
呆気に取られ、どう反応を返すべきなのかがわからなかった。
「そういう君は、どうなんだい?」
「どう、って……」
「名はあるのかい? 見たところ人の成りはしているようだが、君、魔族なのだろう?」
紅の瞳に警戒の色が滲む。
「ああ、そう警戒はしないでくれたまえ。なに、簡単な話だよ。ここに連れてこられた連中は、僕を含め、皆が魔族だからさ」
「……魔族、だって?」
「そう。そうして、オドを搾られるのさ。――精霊とやらを操るために」
精霊。その単語に、紅の瞳が大きく見開かれた。
「――ちょっと待てよ、精霊……?」
瞳が泳ぐのは動揺。
意図せず、彼らの事情に首を突っ込んだ形になってしまったのか。
あれだけ彼女に――ティアに気を付けてと言われていたのに。
伏せた視線。それがのろのろと、クッションと名乗った彼へ向けられた。
視線を受けた彼は、なんだいとでも言うように首を傾げる。
さらりと土色の柔っこそうな体毛が揺れた。
「――俺は、ジルだ。なあ、その話……詳しく聞かせてくれねぇか……?」
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