そとってなあに
記憶の中の母はおぼろげだ。
会ったことも数度と数えられるくらいで。
交わした言葉も二言三言。
だからなのだろう。
あまり“会った”という感じはしていない。
母は傍にいなかった。
けれども、父が傍に在った。いてくれた。
だから、不満があったわけではない。
し、想ってくれているのも十分に伝わっていた。
だが、それでも降り積もる想いはあるわけで。
ある時。母に会いたい。どうして自分には母が傍にいないの。と。
幼心に父に問うたことがあった。そうしたら父は。
母上は身体の調子がよくないんだ。と。
困ったように笑って答えてくれた。
だから、その時に思った。
ああ、訊いてはいけないことだったのか。と。
自身が思ったことでも、言葉にしてはいけないこともあるのだと思った。
そこからは、聞き分けのいい子供になれていたと思う。
寂しい、なんて。そんなわがままは口にしなかった。
だから――。
◇ ◆ ◇
夢と現を彷徨い、やがて現へと浮上した。
シシィが薄らと目を開ける。
まだ辺りは薄暗がり。なんだ、まだ寝る時間か。
再び目を閉じて、ぬくもりを求めてもぞと動く。
父の懐にいつものように潜り込もうとした。
だが、探す体温が傍にないことに気付いて。
うーん、と軽く呻きながら目を開けた。
碧の瞳が眠たそうにしぱしぱと瞬く。
ぼんやりした視界。それが少しずつ鮮明になって。
そうして、隣に何も、誰もいないのを見てぱちと目を見開いた。
『――あ』
吐息に近い掠れ声がもれる。
そうだ、と思い出す。
しばらく留守にすることが多くなる、と。
だから、いい子で待てるかな、と。
それを、うん、と。父と約束した。
自分はいい子だから。父を困らせたくはないから。
あれから数日。父は数度帰ってきたりはしたけれども。
顔を見るだけの数度。一緒に夜を過ごし、朝を迎えることはない。
お役目とやらが忙しいらしい。
今まで休んでいた分を頑張っていると教えてくれたけれども。
そんなのもの、関係はないのだ。
自分には、関係がないのだ。
ふいに視界が滲んだ。目頭が急速に熱くなる。
わがままは口にしないと決めた。
でも、気持ちはなくならない。なくなってはくれない。
やり場を見つけられないその気持ちを持て余し始めた頃。
『……チチィ?』
背後から、眠そうな声が彼の名を紡いだ。
その声にぴくりと反応し、のろのろと振り向く。
振り向いた先に、眠たそうにしぱしぱと瞳を瞬かせる彼女がいた。
首を傾げたティアは、もう一度名を口にする。
『チチィ?』
どうしたの、と。彼女が言葉を口にする前に。
ちあ、と。シシィは徐に立ち上がって、彼女の隣へ身体を寄せた。
ぬくもりを感じて、安心したようにシシィは目を閉じる。
すぐに穏やかな寝息が隣から聞こえてきて、ティアはふうと息をつく。
仕方ないなあ、と。いつものように思って、彼女も静かに目を閉じた。
穏やかな寝息がもうひとつ聞こえてくるのに、そう時間はかからなかった。
*
ぼおとシシィは空を見上げる。
この頃、彼が空を見上げることが増えたなあ、と。
そんなシシィを見つめながらティアは思った。
『――ティア』
呼ばれた母の声にティアが振り向いた。
『行ってくるわね』
『うん、いってらっちゃい』
娘の声にふわりと笑むと、母は空へと飛び立つ。
それに続くように、ちらりとティアの方を省みてから父も飛び立つ。
両親の姿を見送るように、ティアもシシィの隣で空を仰いだ。
近頃の精霊界は何だか慌ただしい。
全体がそわそわと落ち着かない雰囲気をはらんでいて。
ティアの両親のように、日中は何処かへ出ていく精霊達の姿を、よく見かけるようになった。
そう、まるで何かの準備のように。
『……でも、準備って何の準備?』
はて、何なのだろうか。
そう思ったら、段々と気になってきてしまうではないか。
むむむ、と唸って、眉間にしわが寄る。
と、その時だ。
『……ちあ?』
隣からの呼び声にティアははっとする。
瞬時に眉間のしわを解して横を向いた。
不思議そうに首を傾げるシシィが、じいとティアを見つめていた。
『むつかしいかおして、どーしたの?』
『え、そんな顔してた?』
『してたしてた。こーんなかお』
と、シシィが思いっきり眉間にしわを寄せてしかめっ面。
それに対し、ティアは胡乱げな眼差しを向ける。
『わたち、そこまではちてない』
『ううん、ぜったいしてた』
『ちてないっ!』
『してたもんっ!』
シシィとティアは気が付けば、互いの顔を睨み合っていた。
しばらく睨み合っていたところで、ふっと吹き出す音。
どちらが先だったかはわからないけれども。
それでも。どちらからともなく吹き出したあとは、しばらくの間二匹は声を出して笑っていた。
* * *
『ねえっ! ちあっ!』
懸命に足を動かしながら、シシィはそれを見上げて声を張り上げた。
たたたと駆ける音が響く。
『なあにー?』
一方でティアは、余裕を持った声でそれに返す。
ばさりとはばたき、少しだけ高度を落した。
シシィと目線を合わせるところまで落したところで。
はっはっと息を切らしたシシィがにやりと笑う。
『――いまだっ!』
ていやっ、と。
狙いを定め、シシィが思いっきり地を蹴り上げた。
彼が狙うは高度を下げて傍らを飛ぶティア。
前足の爪がきらりと光を弾く。
捉えた。碧の瞳が鋭利に細められた。
『かくごぉーっ!』
シシィの前足がティアに届く――その、寸前。
『――甘いわよ』
ばさり、はばたきひとつ。
髪一重の差でティアは再び高度を上げ、空へと舞い上がった。
ずべと地に滑り込んだシシィがむくりと顔を上げたかと思えば。
恨めしそうな碧の瞳が空を睨み、悔しげな呻きがもれる。
『……ちあぁぁぁ』
『なあにー?』
地を這うような呻きに答えたのは、先程と同じ余裕を持った声。
だが、その声は少しだけ得意げな響きがはらんでいた。
ふふん、と薄ら笑うティアを見上げ、シシィの顔は悔しげに歪んでいく。
『……ううぅ、さっきからとぶのはずるい』
『あら、飛ぶのは鳥の特権ちゃない』
『ずるいずるいっ。ぼくもとぶ』
一瞬。ぱちとティアの目が瞬いた。
次いで、ついと視線がシシィへと向けられ一言。
『無理よ』
ティアに即答され、シシィはむっとする。
何か悔しい。すごく悔しい。
『がんばればとべるもん』
不貞腐れたようにぽそりと呟く。
『無理よ無理』
呆れた声音。
再び即答されてしまった。
『……とべるもん』
ふいっとそっぽを向いて、シシィはまた呟く。
ここまでくれば、もはや意地だ。
ふっと短く息をついて、シシィの前へと降りたティア。
あーあー、こんなに汚れて。
すっと片翼を伸ばし、彼の顔周りや身体の土を払ってやる。
ティアにされるがままになりながら、シシィはそれでもふくれっ面で顔は背けたままで。
その様子に、呆れ笑いに近いものを顔に浮かべながら、ティアはやれやれと肩をすくめる。
『わたちは飛べるけど、チチィみたいに地をはちることはできないわ』
ぴくとシシィの耳が反応する。
『わたちには、力強い四つのあちはないもの』
つい、と。シシィの碧の瞳がティアを見やる。
それを、ん、と首を傾げて笑む。
シシィの視線がじいとティアを見つめ、やがて己の足を見下ろす。
ふみふみと前足を動かしてみてから、視線は再びティアへ向けられて、彼女のその翼に注がれた。
それを受け、ティアはばさりとその場で羽ばたいてみせる。
『ね、違うでちょ?』
うん、とシシィは小さく頷いてから。
『……そっか』
納得したように。
『そっかぁ』
染み込んだように。
何度もそっかと呟いてから。
ついとティアを据えて、そっかと最後に笑った。
これでようやく大人しくなったか、と。
やれやれとティアは苦笑を浮かべた。
刹那。
『――――』
ティアが目を見開いた。
きょろと視線を走らせて周囲を見回す。
いつの間にかティアとシシィの周囲は霧に覆われていた。
否、既に濃霧と言える程。
いつの間に、と。ティアは舌打ちをしたい心境になる。
実際に鳥の身体で舌打ちなどできないだろうが。
精霊界においての霧の発生。
それは“外”が近いということ。言わば、境界。
『――戻りまちょ、チチィ』
彼女の身体に緊張が走った。
少しばかり硬くなった声で、ティアはシシィを振り返る。
が。
『……チチィ?』
シシィは一点を見据えたまま微動だにしない。
ぴんっと張られたように立ち上がった両の耳に。
上向いた鼻はすんとひくついている。
何かを感じているのだろうか。
『……チチィ、戻りまちょ』
ティアが声をかける。
けれども、彼から反応らしい反応がない。
彼女は焦る。
一点を見据えたまま動かない彼。
そして、ますます濃くなる濃霧。
濃霧の濃さがそのまま、“外”への近さを意味する。
『……戻りまちょーよ』
『…………』
『チチィ……』
『――このにおい、しってる』
『……え?』
がばっとシシィがティアを振り向く。
その勢いに気圧され、ティアが一歩足を引いた。
『このにおい、ぼく、しってるっ!』
シシィの碧の瞳が驚きで見開いている。
『外の、においを……?』
思わずティアが呟いた、その中に。
『そと……?』
シシィは耳に引っかかる単語を見つけた。
反射的にその単語を繰り返して、先程と同じように一点を見据える。
匂いの元を辿るように、鼻はひくつく。
何なのだろう。この匂いを、確かに自分は知っている。
『そとって、なあに……?』
外という単語は初めて耳にしたはず。
それでも、その単語に強く引き寄せられる。惹かれる。
ぼおと遠くを眺めやる彼の姿は、まるで熱に浮かされたようで。
その姿はティアを不安にさせる。
シシィのまとう空気が、彼のそれではない気がして。
彼は彼であるはずなのに、まるで彼が彼ではないようにみせる。
早く、戻らなきゃ。焦燥だけが降り積もる。
『……チチィ、戻りま――』
それは一瞬だった。
何度目かの言葉を投げかけていた。
だが、それを振り払うように。
彼はティアには目もくれずに駆け出していた。
あ。吐息が溶ける。
ティアはしばらく、シシィが数瞬前まで居た場所を見つめていた。
やがて。はっとしたようにシシィが駆けて行った方を見やって。
その背が小さくなっていることに気付くと、ティアも慌てて翼を広げて追いかける。
シシイの姿が濃霧に飲まれる前に追いつかないと、と。
ティアは大きく翼を打ち、ぐんっと速度を上げた。
そして、彼女の姿も濃霧に飲まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます