眠り


 少しだけ、休むだけだ――。


 うとうとと、まどろみの中でたゆたうそれ。

 ふわりとした心地のままに、それは身をゆだねる。

 まるで真綿に包まれたような、そんな優しい心地に。

 それのまどろみが、深くなる。

 ほう、息を吐いた。刹那。


「――ゆっくりと、眠るのです」


 そこに声が響いた。

 その、少女のような声は繰り返す。


「ゆっくりと、眠るのです――」


 だから、おやすみなさい。と。

 その声は繰り返す。優しく、穏やかな声で。

 慈愛をはらんだ声は、子守唄のように言葉を紡ぐ。

 深めるまどろみに、それはゆっくり、ゆっくりと深い底へと落ちていく。

 誘われるように、落ちていく。だが――。

 はっと、短な吐息がもれる。

 このまま落ちてはだめだとどこかが叫んだ。

 落ちることに対し、比例するように遠くなる記憶。

 それへと向けて、必死にそれは手を伸ばす。

 もう既に、それに身体の感覚などなかったけれども、それでも、必死に伸ばした。

 忘れられない。忘れたくない。忘れては、だめだ。

 まだ、果たせていない約束がある。

 きっと、待ってる。自分を待っている。待ってくれている。

 そこまで思って、それはふと動きをとめた。息を詰まらせる。

 待っているのは一体――誰?

 先程よりも遠くなる記憶。その奥に、誰かの影を見た気がした。

 その影が背を向ける。待って、いかないで。

 必死に手を伸ばす。忘れたくないと必死に伸ばす。

 瞬間。ぴりりと痺れるような感覚をそれは覚えた。

 けれども、その痺れに構わずに伸ばした。

 慌てたのは少女の声だった。


「抗ってはなりませんっ!」


 唄っていた声とは一変。必死な声だった。

 荒らげられた声に、その必死さが伝わってくる。

 ああ、うるさいなあ。と、煩わしげにそれは思う。

 少女の声が一度息をついた。数瞬の間ののち。


「大丈夫です」


 落ち着きを取り戻した声に、諭すような響きが含まれる。


「そのまま、己の想いに身をゆだねなさい」


 だが、それにとってはやはり煩わしいだけで。

 嫌だ、と少女の声に拒む。

 伸ばした手をさらに伸ばす。びりりと痺れが走り、思わず顔をしかめた。

 身体の感覚など既にないのに、思わずしかめた、その顔の“感覚”に苦笑した。

 そして、その苦笑した“感覚”にまた笑うのだ。

 この思考は永遠に巡るものだなと、やはりそれは苦笑して。

 遠くなって行く記憶に手を伸ばし続ける。

 なのに、距離は縮まらない。縮まるどころか広がるばかり。

 どうして。ぎりりと歯を噛み締めたとき。

 ほるり。何かがほつれる感触がした。

 これは――本物だ。確かに、“した”。


「……!」


 少女の声に焦燥が滲む。


「やめるのですっ……!」


 鋭い静止の声。けれども、それは抗い続ける。

 それに走るはびりりとした痺れと痛み。

 だが、それは構わないと伸ばし続ける。

 大切だったから。否、大切だから、過去のものにはしたくないから。だから――。刹那。


「――――っ」


 ぱきんっ、高く澄んだ音が響き渡った。

 ああ、とそれは妙に納得をする。

 ああ――亀裂がはいったのだな、と。

 何に、とは。問わずともそれには解った。

 それでも。と。それは手を伸ばした。広がる距離を縮めたかった。

 だが、それに反して急速になる“眠気”に戸惑った。

 なぜ。その答えはすぐに解った。


「――眠りなさい」


 少女の声が響く。

 慈愛をはらんでいたその声は、凪いだ湖面のようで。


「――眠りなさい」


 その声で。


「――眠るのです」


 眠れ、と繰り返す。

 これは抗えそうにないな、とそれは悟る。

 でも、と。最後にそれは思った。想った。

 忘れたくない――と。約束を、想った。

 それを最後に、“それ”は深く落ちていった。


「……大切ならば、それを抱き込んだままでもよいのですよ。なのに、あなたは――」


 声だけが、響く。


「今は眠りなさい。私の中で、ゆっくりと――」




   ◇   ◆   ◇




 そこは人の足では踏み入れることの叶わない、閉ざされた場所。

 けれども、人の世と重なり合うように存在する、そんな不思議な場所。

 精霊の森。精霊の住まう森。その森の奥深くの湖。

 精霊の大樹、と人からは呼ばれるその大樹は、湖に囲まれた島に根を下ろす。

 四方を湖に囲われ、その湖もまた、四方を森に囲われる。

 湖面にまたたく星がゆれた。

 波紋をつくったのは一匹の獣。

 ぴちゃりと波紋を伴い歩を進めるその獣は、湖面を優美な姿で歩いていた。

 白の体毛は月光を弾いてきらめき、湖面を撫でる夜風に遊ばれる。

 足を止め、月を見上げる瞳は深い湖の瑠璃。

 獣の左の目尻に刻まれた雫の模様が、同じ色にまたたいた。


「――眠るのに心地よい夜ですね」


 獣――白の狼が紡いだ言葉に応えるように、ざわと大樹はその身をゆらした。

 ついと大樹を見上げた狼は、ひらりと優雅な動作で湖面を蹴り上げた。

 月光を弾いて白の体毛が舞う。

 きらときらめく余韻を楽しむように、夜風がそっと撫でた。

 湖畔に静かに降り立った狼が向かうは、大樹の根本のうろ。

 そこが狼の住まう場所。うろに入ると、狼は四肢を折り畳んで身を埋めた。

 重ねた前足に顔を乗せ、深い湖の色の瞳を静かに閉じた。だが。


「――――」


 それはまた、静かに開かれた。

 顔を上げ、うろから覗く大樹の枝葉を狼は見上げる。

 瞬間。さわと大樹が枝葉を揺らし、仄かな燐光が少し舞った。


「――ああ。またひとつ、新たな旅が始まるのですね。まっさらな旅が」


 すでに掻き消えた燐光を想う。

 よき旅路となりますように。と。

 旅を終えた魂は大樹に抱かれ眠る。

 そして、疲れを癒した魂はまた旅を始めるのだ。

 それが、精霊の廻り。

 が、その廻りから極稀にそれる者もいる。

 それが。


「……あなたはまだですよ」


 少し苦笑混じりに紡がれた言葉。

 再び重ねた前足に顔を乗せた狼が、くすりと小さく笑った。


「今は負った傷を癒す時です。大切なものは抱えたままでいいのですから」


 だから。


「――だから、今は私の中で眠りなさい」


 ゆっくりとお休み。目覚めの、その時まで――。

 大切なものを抱え込むように、狼は身を丸めた。

 己の中で感じる、自分とは違う“それ”。

 狼は瑠璃の瞳を静かに閉じ、眠りに就く。

 湖面にまたたく星を、そよと吹き渡った風がゆらした。

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