エピローグ


 森の奥深く。地を踏みしめる音を響かせながら、男はここまで足を動かしてきた。

 別段、男はこの森を目指していたわけではない。

 だが、自然と足はこの森の、そのさらに奥へと向かっていた。

 ただ、それだけ。

 草木は茂っているけれども、森深さは感じない。

 枝を伸ばし、葉を茂らせた木々。

 しかし、葉の隙間から程良い日差しが差し込んでいる。

 それが適度なそれとなり、地に根をおろす草花にまで程よく届くのだ。

 その理由を男は知っている。

 彼は近場の幹に手を置き、はあと深い息を吐き出し顔を上げた。

 荒い息づかいを落ち着けるため、深い呼吸を意識して繰り返す。

 そんな男に近付く気配が幾つ。

 複数の光の粒が、男の傍でふよふよと漂いながら近付く。

 森に足を踏み入れてから時折目にしていた光の粒。

 この彼ら、はたまた彼女らが、森に、木々に働きかけて状態を保ってくれている存在。

 男の傍でふよふよと漂う光の粒。

 それが一つどころに集まったかと思えば、それぞれがゆるやかに明滅を始める。

 その様はまるで会話をしているようで、相談をしているようにも思えた。

 やがて、その中のひとつがすいっと男に近付く。

 ふるりと光の粒が震えた。それはまるで、心配だよ、と訴えているようで。

 男の瞳が瞬く。瞬いて、小さく苦笑した。


「……大丈夫さ」


 幹に背をあずけ、そのままずるずると滑るように座り込む。

 ふよと彼の動きに合わせてゆれる光の粒達。

 激しくなった明滅の度合いが、光の粒達の心境を表す。

 男が気怠そうに腕を持ち上げ、指をそっと伸ばせば。

 ひとつの光の粒がちょこんと男の指先にとまった。

 激しかった明滅がゆるかなそれに変わり、気遣うような雰囲気をまとう。

 触れることで光の粒は察してしまった。

 音にならないささやきが男に届く。


「……少しだけ、疲れただけさ」


 ささやきに応えて、男が空を仰いだ。

 木々の間から覗く空は、澄んだ青をいっぱいに広げて晴れ渡っていた。

 そう、あの日の空のように。知らず男の顔が緩む。

 けれども、ああ、とすぐにその顔に痛みの色が滲んだ。

 彼女と出会った時の空も、別れた時の空も。今みたいに晴れ渡っていた。

 そして自分は、彼女との再びをまだ果たせてはいない。

 また、みつけるから。と、言葉にしたのに。

 百と数十と、少し。人間の時間感覚で数えた。

 人間にとっては途方もない時間だろうけれども。

 人間ではない自分にとっては然程長くはない時間だ。

 ほおと息を吐いた。男の指にとまっていた光の粒がそっと離れる。

 さわと風が吹き、木々をゆらして木漏れ日もゆれた。

 男の白の髪が陽光を弾いて白銀にきらめく。

 それが視界の端でちらつき、男が目を細めた。

 彼女の愛したこの色は、彼にとって誇りだった。

 人間ではない彼は、彼自身で動ける範囲に限界がある。

 その限られた中で探し続けた。それでも、見つけられなかった。

 だとすれば。もしかしたら彼女はまだ、世に生を受けていないのかもしれない。

 のんびり屋だった彼女。だから、まだ輪廻にのっていなくとも不思議ではない。

 男の口端に仄かな笑みがのった。

 彼女らしいな。そう思えば、あたたかな気持ちが胸中を満たした。

 ならば、己は待つだけだ。その時まで、待つだけだ。

 だけれども、少しだけ眠いから眠ってもいいだろうか。

 ここまで休まずにきたのだから、少しだけ疲れてしまった。

 持ち上げたままだった腕が、ぱたりと落ちる。

 まぶたが重たくなってきた。

 少しだけ、眠るだけだ。少しだけ。

 それで、また探すのだ。

 彼女が例え、以前と違う姿形をしていても自分にはわかる。

 自分は――精霊は魂を視る。

 そして自分は、あの魂に惹かれたのだから。


「待つことも、探すことも嫌いじゃないしな」


 ふっと笑い、男のまぶたが静かに閉じられた。


「少しだけ、休むだけだ……」


 光の粒達が男の周囲に集まり、ふよふよと周囲を漂う。

 静かに優しく繰り返される明滅は、彼らの、はたまた彼女らのささやき。


「オヤスミ」


「オツカレサマ」


「ユックリ、オヤスミ」


 小さく紡がれる光の粒達のささやき。

 こそこそと内緒話をするような、ささやかれるくらいの言葉達。

 男は顔に穏やな笑みを残したまま、眠っていた。

 そんな彼の姿が次第にほどけて行く。

 風が吹いた。木々をゆらし、木漏れ日もゆれて。

 ささやくようにさわさわと草木がゆれる。

 気が付けば、男の姿はなかった。

 そこに在ったのは獣の姿。四肢をたたんで重ねた前足に、顔を乗せて眠る獣。

 身を白の体毛に包まれ、静かに眠っている。

 ゆるり。その姿も次第にほどけて行く。

 木漏れ日がゆれる中、白銀のそれが舞う。

 幾らか白銀が舞ったかと思えば、瞬きした間に獣は消えていた。

 だがそれは、瞳が姿を映さなくなっただけであり、彼らには、はたまた彼女らにはわかっている。

 光の粒達が見えないそれに寄り添う。

 見えないそれを大切に、大切に皆で抱えてふわりと浮かぶ。

 その、刹那だった。

 ひゅっと一際強い風が吹いた。

 その風に乗るように、光の粒達が空へ舞い上がった。

 どこに隠れていたのか、一斉に幾つもの、それまでとは別の光の粒らも舞い上がる。

 大切に抱えられたそれを護るように、寄り添うように、導くように。

 光の粒達が空へ舞い上がる。その光景はまるで、何かを運ぶ箱舟のようで。

 風に乗り、箱舟が向かう先は、森で一際高くそびえる大樹。

 人間の間では精霊の大樹と呼ばれ、精霊王が住まうと伝えられている。

 そして、それは真実で。旅を終えた精霊が還る場所でもあった。

 旅を終えた精霊は、精霊王のもとに還り、疲れを癒やすように眠る。

 そしてまた、まっさらな旅を始めるのだ。

 だから、あの精霊も還るために箱舟に乗った。

 旅を終えた精霊を還すのも、この森に住まう幼い精霊達の役目だから。



 ふわり。白い傘を持った種達が舞い上がった。

 旅を終えたそれを見送るように。

 さわ。森が静かに鳴いた。

 次の旅を祈るように。

 森に、風が吹く――。

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