第7話
「いい加減にしろ❗」
その怒鳴り声に駆けつけると、体格のいい自閉症の和田一さんが、自分の手を噛みながら、他の施設利用者を手で叩いて回っていた。ああ!っと、大声をたてながら。
木内は、一さんを何とかしようとして、利用者から引きはなそうとしていた。でも、一さんの興奮は高まるばかりだった。
私は、そこに駆けつけた職員に言って、一さんから他の利用者を部屋から連れ出してもらった。そうして、木内にも出ていくように言った。一さんと二人になって、興奮を鎮めるためだ。
本当は、木内には退勤してほしかった。一さんが彼を見たら、落ち着いたとしてもまた、興奮して利用者を叩くかもしれない。
時間は、まだ午前の日課が終えて、散歩や簡単な手作業から帰ってきたばかりだった。
一さんは、自傷と多飲(水分の摂りすぎ)の行動障害がある。ストレスが多いと、行動障害が顕著に現れる。ストレスを和らげ、行動障害を軽減するためには生活改善が必要だった。
主治医は、一ヶ月の生活の話を職員から聞き、薬を処方するだけだ。薬は必要だが、それで自傷や多飲が軽減するわけではない。生活改善ができて、軽減が可能になるのだ。そのことを、私は学んだ。
拓ちゃんの支援と合わせて、一さんの多飲軽減の支援に個人的に当たっていた。方法は、無理に水分を抑え込まないこと。そのために利用しているのは洗濯挟みだった。
支援は、洗濯挟みを二つ持たせてお互いに挟む。繋がった洗濯挟みは、空の入れ物に入れていく。入れ物は、二つ用意する。空の入れ物と、一つ一つばらばらな洗濯挟みが複数入った入れ物。
課題という言い方をしているが、私があらかじめ用意した数の洗濯挟みをお互いに挟んで空の入れ物に入れていく。すべて挟んで空の入れ物に入れたら水を飲みに流しに行ってもいいことにしている。つまり、だめ、とはしていない。
洗濯挟みは、一さんが流しに行っている間にばらし、数を増やして入れ物に用意し直しておく。そうして毎日、日に二回続けた結果、洗濯挟みは、二百個、百組まで増えていた。
すべて挟み終えるまで水を飲みに行けないわけで、一さんは、黙々と洗濯挟みと向き合い続けた。そして、流しに足を向ける回数が減って行った。ただ、洗濯挟みだけをしていては飽きるときが来る。何か違う課題、または遊びに変えてあげないと。作業ができると一番いい。
一さんの可能性を考えるのが楽しいと思える。一さんのご両親に報告が楽しみになった。
私は、一さんと対した。
「ああ❗」
抗議の声、怒っている。水道から水をコップに注いで彼に飲ませる。ごくごく、喉に流し込む。飲み終わると、「ああ❗」と言って、おかわりを要求してきた。だめとは言わず、もう一杯飲ませる。飲み終わるとさらにもう一杯の要求。私は、黙って注いできた。ごくごく、飲み干した。
「まだ水を飲む?」と訊いてみた。コップを受け取ろうとして、彼は放さない。いらないということらしい。そして、また「ああ!」と言って、部屋の入り口を見た。私は、入り口を開けた。すると、勢いよく立ち上がって廊下に出て行った。笑顔の表情を浮かべて。
(大丈夫、機嫌がなおった)
私は、ほっと胸を撫で下ろした。
木内は、多飲の和田さんが水を飲みたがるのを無理に抑えようとしたようで、和田さんを怒らせてしまったようだ。それを指摘し、もう一度説明をした。だが、 木内は、その後も利用者を怒鳴ることが度々見られ、無理に抑えようともした。
同じ自閉症の河合啓太さん(私の寮には自閉症、または、自閉傾向の人が多い)をパニックにさせた。接し方を教えてあったが、木内は、ほとんど実践していなかった。
パニックになった啓太さんは、自分の手を噛み、ガラスを割った。奇声を張り上げて壁に突進を繰り返した。とても危険な状態だった。
河合さんは、言葉だけでなにかを伝えようとしても伝えたいことのすべてを理解できるわけではない。言葉で伝えることは、社会が言葉社会で、言葉のやり取りなため必要だが、自閉症の人にそれを当てはめると理解が難しくなり、河合さんの場合、苛立ち、パニックになる。彼は、文字が読める。紙に伝えたいことを簡潔に、伝えたいことだけを書いて彼に渡す。それを読んで理解ができるのだ。けして、言葉だけで押しきってはならない。そこを、木内は守れなかった。言葉で押しきろうとしたのだ。和田さんとのやり取りも、水を飲みたい彼を無理やり押さえ込もうとした結果だった。
木内の限界を職員の誰もが感じ、寮長に私から話して、部長に掛け合ってもらった。
このままでは、利用者にストレスが溜まる一方で、よい支援が図れないと。
すぐには返事はなく、部長が直接、木内から話を訊くことで話は終えた。
それからまもなくして、木内は退職した。
「言葉で話して理解ができないなら、社会で生きていけないじゃないですか。施設を出て生活なんて無理ですよ」
との言葉を残して。
私は思うのだが、支援に当たる人間が諦めてしまったら、河合さんや和田さん、拓ちゃんも、誰も社会に出て生活できないではないか。
私たちは、けして諦めてはならない。そう思う。一歩でも社会に出て生活できるよう、考え支援していかなければならない。それが、遠く、遅々たる歩みでもだ。私たち支援に当たるものの使命は、単にお世話することで一日を終えてはならない。それがどんなに困難で越えることが不可能と思えても、果敢に挑まなければならない。
親亡き後。
親は、そのことをとても気にかける。私たちは、少しでも、ほんの少しであっても、寮にいて生活する人が社会に向けて一歩を踏み出せるなら、その可能性があるなら、その歩みを止めてはならない。少しでも、先を歩めるよう、考え、支援していかなければならない。そう思う。
そんな強い気持ちで、拓ちゃんの支援が続いた。和田さんも、河合さんも、同時に支援を進めた。
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