第6話

 塚原さんが畳んだ衣類を衣装ケースに収める作業をしているときの拓ちゃんは、その作業が三十分に及んでも苛立つことはなく、畳まれるのを待ち、手渡された衣類を、自分の前に置かれたケースに収めていった。飽きて、塚原さんの膝に乗って甘えるしぐさを見せることがあっても、衣類を渡されると衣類ケースに収め、すぐにまた、甘えるように膝に乗る。

 塚原さんは、

「こんな言い方しかできないですが、拓ちゃんは、何もできないとずっと思ってきました。今の拓ちゃんが信じられません」

 ほがらかに私に話してくれた。正直、私も、これほどまでに拓ちゃんが変わるとは思っていなかった。


 拓ちゃんが今はなくなった児童寮で生活していた小さな頃の様子を、私は、障がいの重い成人の男女混合の寮で度々聞いていた。 

 寮を飛び出して近くの民家に飛び込んで食べ物を漁っていた彼の話を。

 拓ちゃんは、落ち着きがなく動きが激しく、じっとしていられない。自傷があって、放っておくと、あっという間に傷が大きく、重症化してしまう。 職員は、彼の見守りに神経を使い、疲れていた。職員は、どう対処していいのかわからずに、彼に振り回されていたのだった。

 拓ちゃんが成人に達して障がいの重い私が勤務する成人寮に移ってきた。最初は、何も手が打てずに振り回されていた職員だったが、鮫嶋克哉の進言から、拓ちゃんの支援が始まった。激しくなるばかりの自傷に対して軽減を図ろう。

 支援部長の協力を得ただけでなく、園長も期待を寄せた。 

染谷恭一という、頼もしいベテラン職員も居た。上に対する発言力も強い職員だった。回りの職員の信頼も熱い。

 支援体制が整った中で始まった支援だった。

 問題が何もなかったわけではない。

 拓ちゃんの支援が始まって約一ヶ月後、グループホーム担当の職員が一人、異動で私の勤務する寮に配属となった。

 それを伝え聞いた私は、(なぜ今?)と、胸が騒いだ。

 拓ちゃんの支援が落ち着くまで、異動は考えないでほしいと、部長に伝えてあった。

 自閉症の人は変化を嫌う。また、支援体制が整い、順調に支援が進んでいる最中だった。

 木内純哉。

 彼は、異動初日、耳を疑う言葉を吐いた。

「利用者を見張るんですね?」

「はっ?」

 聞いたのは、私だけではない。朝の申し送りに居た職員の全員が聞いた。

「見張るって何?言葉は正しく使って。見守るだから」

 牛嶋が、怒って訂正を促した。

「でも、見張るんでしょ?結局」

 反省の言葉はないのか。少し考えればわかるはずと思えた。

 見張ると見守るとでは、とても大きな差がある。

 木内がグループホームに職員として入ったのは今年の二月からだった。一人退職者が出て、グループホームに欠員が出たのだ。募集したところ、まもなく福祉の専門学校を出て就職活動中の彼が応募してきた。

 グループホームが運営を始めて三年が過ぎていた。

 美山園の支援員一名と、地元で協力していただける方たちとで、男女二つのグループホームで暮らす障がい者の生活を支えていた。グループホームで暮らしていたのは、男性五名、女性六名で、そのうち、働きに出ていたのは男性三名、女性二名だった。働きに出ていない他の人たちは、就職活動中だった。

 働き場所は、レストランや、工場、清掃会社などだった。

 彼らの生活を見る職員は、早番、日勤、夜勤で、食事の献立を考え、買い出しから調理まで支援していた。外出に付き添うこともあり、他にも、訪問販売の対処や、職員が不在の時の来客への対処法を教えた。電話には出ないように説明していた。どんな相手からかかってくるか知れず、勧誘などでトラブルになるのを防ぐ意味で。留守番電話にしておくのが常だった。

 正しい生活を体得して、無駄遣いをしない金銭感覚を身に付け、いずれは、自立して生活するというのが目標だった。

 木内がグループホームで勤務してからホームの空気が一変したとの話が度々聞かれるようになった。

 障かい者への態度、言葉遣いが思わしくないという。ホーム長の支援員も手を焼くほどだと聞く。とにかく、人の注意を聞かない、自分本意だというのだ。それに、利用者を怒鳴る。

 支援部長に現状報告が行き、直ちに異動となり、私の勤務する寮に配属となったのだ。

「問題を起こさないように見張るんですよね。問題があるんだから。見守るだと、手が出せません、いいんですか?」

 さすがに、私も我慢がならなかった。

「どういうつもりなんだ?見張るだなんて。利用者は、何も悪いことはしていないんだぞ。言い直したまえ」

 しかし、

「放っておいたら問題を起こすじゃないですか。そうさせないために見張る、んでしょ?」

 当然のように見張る、と口にする木内に、私はめまいを起こしそうになった。怒りが込み上げた。

「ふざけるな。本気で言っているのか」

 声が怒りに震えた。

「言い直したまえ」

 木内は答えない。

「嫌です、私。こんな人と同じ寮で働きたくありません」

 牛嶋の目が、木内を睨んでいた。

 木内の言動は、利用者に影響を与えるに違いない。せっかく自傷が少なくなって落ち着きが出てきた拓ちゃんにも影響を及ぼしかねない。

 私は、寮長にかけあった。

「なぜ、木内がこの寮に異動になったんですか?」

 と言うより、なぜ、上は雇ったんですか?と言いたかった。

 寮長の木俣は、

「グループホームでも困ってしまってね。結果、うちに異動が決まったんだ」

「何でうちなんですか?何もうちでなくたっていいじゃないですか、拓ちゃんが大事なときに」

 苛立った。

「しばらく様子を見てくれ。私から、部長に話してみるから」

 困り果てた様子の寮長。私は、何も言えなかった。苛立ちが増しただけだった。

 当然、他の職員が納得するわけがなかった。皆、不満を口にした。私は、そこでも何も言えなかった。

 そんなある日、大声で怒鳴る声が、寮に轟いた。

「いい加減にしろ!」

 怒鳴り声は、木内のものだった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る